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更新日 2017-01-31 | 作成日 2016-12-27

校訂は国家の偉業

 
新潮45
 


「定本」を使うべし!
 もうずっと昔のことである。東京大学入学試験試の国語の問題で柳田國男の名著『蝸牛考』の一部が出されたことがある。ところがこの問題に予備校がクレームをつけた。
 この文章は柳田の文章ではない、というのである。
 入試は題者が書き下ろしの文章を出しても構わないことになっている。だが面倒、手間が掛かる、文章に文句をつけられるおそれがある……出題者はすでに印刷されたものを使用することの方が多い。
 この国語の問題の出題者は、柳田の論文の典拠が論文に掲載されたものであることを申し出た。ところが予備校側はこれに対して、論文から入試問題を転載するのは不当であるとして大学を非難したのである。「柳田の蝸牛考はすでに筑摩書房の『定本柳田國男集』に収めてある。どうしてこれを使わなかったのか」
 ……そんなことは出題者の勝手である。
 文部省が、入試問題は全集がある場合にはそれを使うべし、という通達を出しているなら出題者も、むろん、それに遵っただろう。しかし、そんなお触れはどこにもない。それが国語力を問うのに適切であれば、論文からでも雑誌からでも使わせて頂く。
 なぜに予備校は全集『定本柳田國男集』を使えとクレームをつけたのか。
 予備校の担当者がその東大を嫌っていたため……いや、そんな私情で出題に難癖をつけても結論は出まい。
 理由は簡単である。
 予備校は「定本」を信じるから、である。
 それはなぜか。
 ほとんどの場合、全集の作成には責任者がいて、学者と編集者がそれに従事している。全集に収めるために選ばれた文章は吟味され、校訂が施され、決定的なものとして読者の前に置かれる……と信じられているからである。
 「蝸牛考」は、昭和二年四月から七月まで人類学雑誌に連載され、翌年刀江書院から言語誌叢刊の一冊として論文を増補訂正して刊行された。その後、昭和十八年に創元社より「蝸牛異名分布表」が付けられ、改訂版として出版されている。筑摩書房の『定本柳田國男集』は、これを使用したものである。
 柳田はこの創元社の本の巻末に三年前に連載した論文を、ほとんど全部に亘って書き改めたと記している。
 その改訂はもちろん学問的な方言の考察においてなされたものであって、入試の国語力を問うこととはまったく別の次元である。しかし、「蝸牛考」は、論文として出版されたものと、昭和二年の刀江書房本と、昭和十八年の創元社本の三種が存在する。全集は、決定版を収めたものと考えれば、これを入試にさえ使用しろというのは、あながち不思議なことではあるまい。


「ぶんしゅう」から「もんじゅう」へ
 
 ワープロで文章を作成し、プリンターで印刷をして、ホッチキスを使って冊子を作り、知人友人に配布する。それくらいならさしたる手間も費用もかからない。配った後から間違いが見つかれば、メールを書いて誤ればいい。
 ところが、この冊子が本屋で売られることになれば、「しまった、間違ってた。メールで誤ろう」で事は済むまい。
 ひどい場合には裁判沙汰にさえなってしまうのは、週刊紙のつり革広告でも目にするところである。それは権力や金に絡むことだから、責任賠償問題になるのだ……ということもできる。対岸の火事は望遠鏡を使ってでものぞいてみたい人がこの世には多くいる。
 しかし、古典を弁じる学者の世界にも、似たようなことはある。
 学者が作るものだから、と言ってそれを鵜呑みにして信用することもまた危険なのである。
 ボクが長年お世話になっている先生は、平安時代中国から日本に渡ってきた唐の詩人であり官僚であった白楽天の詩文集、『白氏文集』を研究しておられる。
 『枕草子』の第二百十一段に「書は 文集。文選。新賦。史記。五帝本紀。願文。表。博士の申文。」と上げられる「文集」である。
 そして、先生は、この『白氏文集』をどう日本語で読むかと実に細に入り、微をうがって調査をされた。
 現在、高校の教科書では『白氏文集』を「はくしもんじゅう」と読む。はたして、平安時代にも、これは今と同じく「はくしもんじゅう」と読まれたものか。
 先生のご研究を側で見ていて、また一夏まるまる共に図書館を駆け回り、江戸時代に印刷された本のなかから『白氏文集』の振り仮名探しに奔走した身として見たところ、江戸時代までは「はくしもんじゅう」とこれを読んだものは皆無である。すべて「はくしぶんしゅう」と書かれている。『源氏物語』、『徒然草』、『枕草子』、『栄華物語』……『白氏文集』を引用した日本の古典には枚挙がない。
 その詳細は数回にわたって記された論文に詳しいが、先生によれば「ぶんしゅう」と読まれていたものが「もんじゅう」となったのは明治三十年代頃であるとされる。以降、一部を除いてほとんどの研究書、注釈書、文学事典、『広辞苑』などの辞書も、『白氏文集』を「もんじゅう」、あるいは「はくしもんじゅう」と読むに至っている。
 さて、『白氏文集』が、「ぶんしゅう」と読まれて然るべき、つまり「もんじゅう」と読むことが誤りであることは、少し日本語のことを勉強したものには当然のことである。
 分かりやすく説明するために例を挙げよう。
 「経」という字には「きょう」という呉音と呼ばれる読み方と、「けい」という漢音という読み方がある。また「間」にも呉音は「けん」、漢音では「かん」。「期」にも呉音で「き」、漢音では「ご」……一般に呉音で読まれるものは「経文【きょうもん】」、「世間【せけん】」、「末期【まつご】」のように仏教で使われる言葉が多い。これは上海辺りの呉と呼ばれる地方の発音が日本にもたらされたものが定着したものである。これに対し、漢音というのは、唐という時代になって、都が漢の地方である長安に遷ってから日本に輸入されたものである。そこでは「経」は「経由【けいゆ】」、「中間【ちゅうかん】」、「期間【きかん】」のように発音されていた。
 さて、『白氏文集』を書いた白楽天は文学史の上では中唐と呼ばれる時代、七七二年に生まれ八四六年に亡くなった人である。生まれたのは長安から東北へ約四〇〇キロほどのところ、この人が呉の地方の言葉を話す筈はないのである。「文集」は「もんじゅう」ではなく「ぶんしゅう」と読まれて日本に入って来た。その証拠に『源氏物語』などでは必ず「ぶんしゅう」と振り仮名がふってある。
 明治三十年代「ぶんしゅう」が何故「もんじゅう」に読み替えられてしまったか……ということはまた別の問題になるからここでは言わないが、一度「もんじゅう」として全国的に普及したものは、いくらそれがおかしいと思って「間違っています」と言っても誰も耳を貸してはくれない。偉い学者たちが、明治三十年から今日に至るまで「もんじゅう」と読んだのだ。かえってそんなことを言う人がオカシイということになってしまう。印刷は、実に、恐るべしなのである。


手書きのものは信じがたい
「全集は正しい」、「偉い学者が言ったものは正しい」……そして「印刷されたものは正しい」と人は思う。
 反対に、手書きのものはあまり信用できないと思っている。
 ヨーロッパ人が「サインの方が印鑑よりも信用がおけるのではないか。だって印鑑はどこでも買える、同じモノを作ってくろうと思えば容易に人に頼むことだってできる」と言うにもかかわらず、銀行はいまだに頑としてそれをはねのる。
 印鑑も印刷されたものの一種である。というより印鑑のようなものから出版というのは始まった。
 石に文を彫る、木に文章を彫る。それに墨をおいて紙を載せ、馬簾で摺れば印刷ができる。「彫る」というのは「刻む」作業である。刻んだものは、何百年、何千年と残る。中国の聖地泰山には紀元前二一九年、始皇帝の命令で作られた「秦刻石」というものが残っている。
 どんなに激しい風雨に晒されても刻まれたものが命長しとする様を見れば、人はそれを信用するだろう。そして印刷されたものは絶対だと思う。
 一九〇〇年の初頭に中国の西北、ゴビ砂漠の周辺から夥しい数の手書きの書物や文書が出てきた時、中国人はそれが偽物だとして疑わなかった。
 シルクロードの要所として知られる敦煌などのこれらの地方を発掘したのはイギリス、フランス、スエーデンなどの探検隊である。調査の結果、ここから出てき文献が唐代に書かれたものであることが分かって、中国人は唖然とした。このショック以来、一生懸命に発掘を始め、もっと古い漢代、先秦時代の「木簡」、「竹簡」と呼ばれる手書きの文献が読み切れない数となって出土する。日本でも奈良時代初期の宰相・長屋王(六八四─七二九)邸宅跡からは文書や中国の文学作品を写したりした四万点に及ぶ木簡が出土したことは記憶に新しいのではないか。
 古い文献が出てくると、ひとはオリジナルに近いものが現れたと喜び勇んで群がってこれを解読しようとする。画期的な発見であることは間違いない。これまで伝説のように思われていた世界が目の前に現れるのだ。しかし、これらの資料を……字を目で追うことはできる。文章の繋がりも理解できる。しかし、古典を読むということは、ただ、文字を目で追うだけの作業ではない。
 意味が分かれば……とは言うけれど、古典は注釈がなければ読むことはできない。発掘された文献に注釈をつけることはできるだろうが、それは現代から見た注釈にしか過ぎない。『白氏文集』を「はくしもんじゅう」と読んで疑わない程度の読解では、これらの出土資料は現代的な視野からの「読み」だけに終わってしまうのではないか。 
 今でも中国人の学者の多くは印刷されて伝えられて来た書物の方が、手で写した本より正しいと思っている。竹簡、木簡は、資料である。もちろんヨーロッパ人が砂漠から発見したものだって本物には違いない。しかしそれは厳密な意味では書物ではない。書物とは印刷されたもの、解釈や研究が固まったもの、もっとはっきり言えば校訂されたものなのである。
 

 『論語』のことば
 東アジア、中国を中心に、朝鮮半島、日本などで最も多く出版されている本は『論語』だと言う。
 「子曰(いは)く、学んで時に之を習う。亦た説【よろこば】しからずや」
 しかし、はたして「子」である孔子は本当にこう言ったのか?よしんばそうだとしても、いつ誰がこんな言葉を『論語』という書物として纏め、冒頭にこの文句を置こうと決めたのか。学問が進歩すればもしかしたら、こうした疑問に仮説を立てられるかもしれない。しかし、タイムマシンでもできない限り、一々の事実は確かめようもない。そして、本文だって作られた当初、ホヤホヤの本物はどういうものだったか、永遠にこれは不明なのである。
 例えば先に触れた敦煌から出て来た本の中にも『論語』がある。これには「時」という字は「日」の右横の「寺」の字は「之」と書かれる。我が国には室町時代に書かれた論語が多くあるが、これらもまた敦煌出土の本と同じく「時」の字は「日」に「之」の字が記されている。
 中国でも日本でも、古くは「時」は「日」の右に「之」と書かれるのが常だったに違いない。しかし、中国では明の時代、日本では江戸時代になると、こうした字はなくなり「時」という字に統一されてしまう。これは、明、江戸それぞれの時代に商業ベースの印刷が始まったためである。
 印刷が行われるためには、校訂という作業が行われる。校正と言ってもよいだろう。
 とにかく、ありとあらゆる『論語』が掻き集められる。古いもの新しいもの、注釈がくっついているものもあるだろう、注釈に注釈をつけた本も中にはある。これらを集めて、どの字を使うのが最も適しているかを研究する。そして、本文を比校【くら】べて、誤りを訂正する。
 そうしなければ、誤った本を作ることになってしまう。誤った本を作れば面目を潰す。国家が版元であった江戸時代、宋、元、明、清の時代には、印刷は国家の信用にもかかわる重大事だったのである。
 「時」を「日」+「之」と書くのは、筆で字を書く時には許される。しかし、印刷では「時」という字に統一しようと決められた。いろんな意味を持っていた「時」という概念が集約されて検討されたのであろう。他にあった「時」の書き方はすべて消えて行く契機が作られた。印刷が行わた時代は、いつでも、どこでもそれと平行して多くの辞書の編纂がなされている。
 こうした文字の統一という点で、「時」とは異なり、もっとむかしの名残をひきづっているのが「説」という字である。現代の作家は、「よろこぶ」という字を「説」の字では書かない。もし、こう書くものがあったとしたら、それは『論語』を意識して書かれたもので、文章の背景にこの『論語』の冒頭を想像して読まなければ作者の真意は理解できないだろう。また室町時代にも、唐の時代にも、「説」を書いて「よろこぶ」という読み方は『論語』以外にはほとんど存在しない。これは原来「兌」と書いて「よろこぶ」と読むものであった。
 オリジナルの『論語』編纂者は、人を欺こうとして文章を作ろうとしたのではない。「兌」と書けば「よろこぶ」と読むことが常識とされる世界があって、そこで『論語』は編纂されたのだ。木簡、竹簡という体裁で出された『論語』は、この後、政治、哲学、文学の必須の教養として、そしてあらゆる分野の規範として東アジア一の大ベストセラーにまで生長する。
 そのまだ生長の萌芽期に、竹簡・木簡から絹布へと書き写しが行われた時代があった。紀元元年、時代は前漢が終わり「新」という短命政権が起こった頃である。
 この頃、漢の王室にあった書物をすべて絹に写して本文を校訂しようとした人間がいた。劉向、劉■という親子である。彼等は当時の認識で本が読めるようにすることであった。この時期、「兌」は「説」の字に置き換えられたのではなかったか。先秦時代に書かれた論語が出土すれば、あるいはこれが確かめられるのかもしれない。

 
本文は創られる
 古典も、今はインターネットで利用ができる。検索、引用……論文を書くのに本にもう一度当たるという学者は少なくなった。
 そして、原典にもどるという行為を忘れることによって、どの本を使えばいのかが分からなくなってしまいつつある。
 たとえば『論語』とひとことで言ってもたくさんの本がある。
 江戸時代前期から後期まで何度も出版された全文にフリガナがつけられた本。これは本文だけを音読して暗唱するために作られた初学童蒙の教科書で、当時の言語資料としては一級資料であるけど、中国学のための資料としては使えない。
 また寺子屋で教科書に使われたものには『論語集注』というのがある。これは中国南宋の学者、朱子(一一三〇—一二〇〇)が書いたもので、彼が亡くなってまもなくして出版された本が残っている。また、ケイヘイという学者が北宋■帝の勅命で作った『論語正義』というものもある。江戸時代の水戸学、朝鮮半島での儒教倫理の研究には使えるだろうが、唐代の研究をしようとすれば、もちろん、これは使えない。そして中国には、残念ながら唐代に人に読まれた論語は敦煌出土の本を除いては残っていない。ただ日本には、唐代そのままのものではないかもしれないが、少なくともそれに準ずる『論語義疏』という室町時代の本が残っている。この本が中国で亡逸したのは、ケイヘイの『論語正義』が作られたためである。
 『論語正義』は、江戸時代の学者も読んだ。しかし、それは明代末期、崇禎年間(一六二八─一六四四)に毛晋という人が印刷した汲古閣本というものであって、間違いが多い。
 『論語集注』、『論語正義』『論語義疏』……それぞれの本にもまたいろんな異なった本文を持つ本がある。柳田國男の「蝸牛考」に三種類の本があるのと同じである。
 清朝、江戸時代後期から末期にかけての学者は、これらの様々な本を比べ、どれが正しいかという研究をした。こうした考証学といわれる方法で本文を校訂して、正しい本文をの本を作ろうとしたのである。
 ……ボクは自分の知識を誇ろうと思ってこうしたことを書くのではない。これは常識であった。教養であった。こううしたことを知らぬ間に身につけてくれる先生方が二十年前にはたくさんあった。
 それは印刷がとてもお金のかかること、そして本文を校訂して行く作業が労多くして報われること少ないにもかかわらず、国家の威信をかけてもされなければならない偉業であることを知っていたからである。
 インターネットで閲覧ができる古典も、本来ならこうした過去の業績を引き継ぐものであろう。便利さという点では、ネットは書物を凌駕する。論語のテキストくらいなら掌サイズのメモリーにすっぽり入ってしまう。間違いを訂正するにもキーボードを打つだけで済んでしまう。
 便利さは、しかし、過去の先人たちの業績を無に帰する様相を呈しはじめた。
 出典が書いてあっても原文を当たろうとすれば、それを見つけられない論文が雑誌を飾る。業績の数が出世に繋がるとすれば、人は平気でそれをするだろう。参考文献のない独創的な論文がインターネットで見つけたテキストを切り貼りすればほんの数分で作れてしまう。
 忙しい同僚は、それを見ても何も言わない。何を言うことができるだろう。
 しかし……と思う。同じような時代が過去にもなかったか。
 出版が金儲けになった時期、中国では明代の中頃以降、江戸時代も寛永を過ぎた前期辺り、そして民国の前期や明治の後期にかかる頃。
 この頃の印刷は、活字を拾って本文を自由に作り換えられる時代がちょうど終わった時期であった。
 活字を並べて本文を作るのは、校訂という作業をしている段階である。「これで果たして正しいのか」という迷いが本を作る人間の脳裏を通り過ぎる。ピッタリと定規で引いたようには並ばない、活字で印刷された本の世界。行間、字間を読んで行くことができる時空がそこにはある。「意匠」とは創る人たちの思いが滲み出る言葉でもあった。
 しかし、そんな時代は終わりを告げる。さまざまな出版社から「古典大成」「文学体系」などという名が冠された本が次々と出版されるや、それを受け継いだようにインターネットが登場した。ここで入力される本文は電気信号で作られた実態のない世界に描き出され、再び解体されて新しい本文が作られる準備をはじめる。
 本文をテキストと言い換えて、構造主義的な議論が喧しい。ボクは書物の校正が、国の責任で行われてあった遠い時代のことを思うのだ。