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更新日 2017-01-31 | 作成日 2016-12-27

『経籍訪古志』という奇跡 

 
勉誠出版「アジア遊学」
 
安政三(一八五六)年夏と言えば、前年十一月十一日に地震が江戸を襲ってからまだ傷の癒えない時期であったと思われる。いや、それよりむしろ、嘉永六(一八五三)年のアメリカからのペリー、ロシアのプチャーチンの来航が地震よりも日本を震撼させていたことであろう。徳川屈指の大儒と称された海保漁村(一七九八─一八六六)は、ある本に序文を寄せる。編者のひとり、漢方の本草学者、森立之(一八〇七─一八八五)、文豪森鴎外の伝記小説でもしられる弘前藩医、渋江抽斎(一八〇五─一八五八)から頼まれて書いたものである。
 その書物はすでにほぼ三十年の長きに渡って書き継がれてきた一冊の書籍の目録であった。タイトルを『経籍訪古志』という。「経籍」とは漢籍のこと、「志」は現在であれば「誌」とか「目録」と書かれるであろう、奈良平安の古えから伝わった書物の目録というほどの意味である。しかし、書籍の目録とは言え、そこに掲載された漢籍の一本一本は、すなわち江戸時代までの我が国の思想を底辺で支え、近代思想の開花にも深く関わるものであった。
 さて、我が国で最も古い漢籍目録は、宮中にあった書物の保管庫である冷泉院が平安時代、寛平(八八九−八九八)年間に焼失して後、藤原佐世によって編まれた『日本国見在書目』を嚆矢とする(──太田晶二郎氏はそうではないという説を述べておられるなど、もちろん異説がないわけではない)。これには、奈良朝以来の遣隋使、遣唐使によって中国よりもたらされた漢籍が約一五八六部、一万七千百六巻も存していたことが記録される。まさに中国では隋の王室にあったとされる『隋書』経籍志に見える漢籍の種類と量に匹敵する。
 ところが、現在のように防火盗難等のシステムもまだ十分ではなかった時代、特に応仁の乱では数多くの書物が焼け、南北朝から戦国時代にかけての内乱によって我が国の古典籍は移動や亡佚を免れなかった。たとえば、豊臣秀次は古筆を好んだとされるが、彼は、その権威を利用して鎌倉時代、北条実時によって創建された金沢文庫から多くの書籍を持ち出しこれを切り取って愛玩したと伝えられる。金沢文庫は北条家の菩提寺である称名寺境内にあって現在なお国宝の典籍を多く保存する研究図書館である。後に徳川家康によって秀次持ち出しの典籍は返還が強制されているが、中にはすでに所在が不明になっているものも少なくなかったと言われ、結局金沢文庫に戻されなかったものが市中に散在する結果ともなっている。
 こうした持ち出しや盗難、あるいは災害などによって典籍の亡佚があったとは言え、我が国には奈良時代以来朝廷によって勅封が附された正倉院など隋唐の時代に書かれた書籍が多く保存されている。
 これらは、二十世紀初頭にフランス、イギリス、ドイツ、スエーデン、中国、日本などから探検隊が編成され、敦煌、桜蘭から莫大な数の書籍が発掘されるまでは、中国本国でさえ決して見ることのできない資料であった。
 なぜかといえば、中国では、ほぼ紀元一〇〇〇年前後の宋代以降盛んになった印刷によって書物が出版されるようになると、それまで行われてきた写本の価値が失われるに至ったからである。
 写本は、これらは宋代になって国家事業として行われた校勘という作業に資料として供せられてのち、おそらくもう用をなさないものと打ち置かれたと思われる。それは、たとえば我が国でも江戸時代までの木版本が明治以降に広く行われるようになる活版印刷に圧されてしまったことと同様の現象であろう。
 ところで、中国では清朝時代に入ると満州人統治の政策として、康煕帝以下乾隆帝によってすべての漢字を網羅した『康煕字典』の編纂や中国国内の書物を収集して朝廷に備えるという『四庫全書』の制作などの文化事業が国を挙げて行われた。これが学問の方法に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
 清朝考証学とこれはふつう呼ばれるが、つまりある古典を研究する場合に、まず異本を可能な限り収集してこれを比べ、文字の違いに対して、どれが最も正しいかを、古代の発音を調べる音韻学、意味についての研究である訓詁学などから考究する方法である。
 しかし、考証学が行われるためには、まず第一に異本を収集するというところから始められなければならない。そしてそのためには求める書籍がどこに所在するか、またその書物は何時、誰によって作られたものかという書籍の情報についての鑑定などが必要になる。これを目録学という。
 宋代に印刷が始まるとそれまでの写本が失われたということからすれば、唐以前の著作物の場合、中国ではそのオリジナルを求めることは不可能であろう。それを可能にしたのが、遣隋使、遣唐使などによって将来されていまだに残る古写本だったのである。
 安政三年、海保漁村が序をものした『経籍訪古志』を、私はひとつの目録学上での奇跡と考えている。
 それは、ひとつには中国での目録学の発展の機が熟し、我が国に隋唐の書物を捜索する機運が次第に高まりつつある時にこれがものされたこと。ふたつには南北朝室町時代に散逸した書籍が徳川幕府三百年に及ぶ安定した時代にあるべきところに収まった時期にあったこと。同時にそれがまた明治維新の動乱によって再び戦火や新しい体制への移行で散逸移動を余儀なくされてしまう直前であったこと。そしてまた我が国における漢学国学の水準が極度に達していたことなどである。
 しかし何より、本書に掲載された書物の一本一本は、我が国の思想の根幹を形成して、それゆえに歴史の荒波の中で消そうとしても消すことのできなかった書物である。これらを概観することができる書目『経籍訪古誌』がものされたとは、まさに奇跡以外のなにものでもないであろう。
 戦前から戦後にかけて書誌を本格的な学問として確立させることに懸命した長澤規矩也博士は、昭和十(一九三五)年、安田善次郎旧蔵の『経籍訪古志』の初稿本を研究し、普及版として知られる大正十四(一九二五)年国書刊行会刊『解題叢書』本までの『経籍訪古志』諸本の発展や、当時点での『経籍訪古志』所載の諸本の所在を示された。
 しかし、それから七十余年を経過し、『経籍訪古志』に載せられる本の所在は変化し、さらにそれぞれの本の文献学的調査も、先学によってより詳しく知ることができるようになった。筆者等はこうした研究を踏まえつつ、改めて『経籍訪古志』を顕彰し、ここに研究会を発足させ、所載諸本の書誌や来歴等について発表したいと考える。誤りもあると思う。より詳しくそれぞれの書籍についての情報を知り得ればこれ以上の欣幸はない。大方のご叱正を乞う次第である。