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更新日 2017-01-31 | 作成日 2016-12-27

図書館の本来

 
新潮45
 
 
 
「忘れられない“事件”」
 全国の公立図書館で、本や雑誌のページを破ったり、カッターで切り抜いたり、はたまた専門書に蛍光ペンでアンダーラインを引くなど、所蔵された図書を傷つける行為が増えているという。 
 二〇〇六年十二月一日付けの読売新聞には、東京都世田谷区弦巻にある世田谷区立中央図書館の話が添えてある。被害が目立ち始めたのは五年ほど前。以来、状況は悪くなるいっぽうで、「最近では一日二、三件のペースで切り取りや書き込みが見つかる」と資料係は述べる。
 なかでも「忘れられない“事件”」として紹介されているのが、三年ほど前の出来事である。若い女性が閲覧室で、ファッション雑誌のヘアスタイルの写真をカッターで切り抜いていた。注意するとその女性は、まったく悪びれず「どうしていけないんですか」と答えたというのである。 
 はたして記事は、“図書館側は、「社会全体のモラル低下の表れでは」とため息をついている”と伝え、話題の新書『他人を見下す若者たち』の著者、名古屋大学大学院・速水敏彦教授による「自己中心的で他人を軽視する行動をとる傾向が強くなっている結果、罪の意識もなく公共の財産を傷つけるような行為が横行しているのではないか」とのコメントを紹介している。たしかに、公共の財産を破損するの行為を咎め、原因をモラルに求めるのは、そのとおりだというほかない。記事は、親のしつけがなっていないだけでなく、親にも問題があるとするが、もっともである。 
 記事は、図書を傷つける若者たちを「公共物損壊にあたる」と断罪する。現代のモラルハザードには、もはや、法による罰則しか手の打ちようがないという論理は、理解できる。 しかしながら、同時に興味は別に生じた。雑誌を切り抜く若い女性に、「なんで悪いのですか?」と問われ、資料係はなんと返答をしたのかである。記事には、それは書かれていない。
 いったい図書館が持っている社会的機能とは、なんなのだろうか。本好きたちが、毎日のように通う図書館だが、好事家のためだけにあるのではない。モラル低下を指弾するのは必要だろうが、いまいちど、国や時代の別さえも超越した、図書館の本来を考えてみるのも無駄ではないだろうと思うのである。
 
 
女性専用の図書館
 千代田区神田駿河台に「お茶の水図書館」という施設がある。 
 名称に駿河台周辺の別名「お茶の水」という名が冠されているが、公立の図書館ではない。 
 大正六(一九一七)年、出版社主婦之友社を創立し、雑誌『主婦之友』を創刊した石川武美が、読者から得た利益を社会に還元したいという思いで、日本初の女性専用図書館として、第二次世界大戦後の復興期にあたる昭和二十二(一九四七)年、駿河台に誕生させたものである。「武美」は「たけよし」と読む。大分県宇佐郡安心院【あじむ】町の出身である。 
 同図書館は、雑誌『主婦之友』のバックナンバーはもちろん、さまざまな女性誌、家庭誌が所蔵され、婦人雑誌の編集者にとっては資料の宝庫となっている。
  ところが、その図書館が五年ほど前に突然売りに出されたのである。 
 売却の話を聞いたボクは、奉職する大東文化大学の図書館に、「お茶の水図書館」を購入する意志がないかどうか打診したのだが、 じつは、ボクの興味は、女性専用図書館にはなく、同じ図書館の七階に在する「成簣堂文庫」にこそあった。 
 成簣堂文庫とは、自由民権運動の立役者となったジャーナリストであり、かつまた民友社、国民新聞社で名を馳せた、徳富蘇峰旧蔵の文庫、——つまり、蘇峰の私立図書館を移設したものである。はたして蔵書は、感嘆に値する。奈良平安から江戸に至る文学、歴史の文書や書物、中国の宋・元・明・清代に印刷された貴重な文献など、重要文化財二点を含めた書物が約十万冊所蔵されているのだ。
 文庫名にある「成簣」は、『論語』の子罕篇に由来する。
「子曰く、譬えば山を為るが如し。未だ一簣を成さざるも、止むは吾が止むなり」 
 たった一杯の簣【もっこ】を運ぶか運ばないかが、仕事の分かれ目であり、それをやるかやらないかは自分の責任である。誰のせいでもない、という意味である。 
 蘇峰は、その言葉を肝に銘じていたのだろう。成簣堂文庫に集めた蔵書を基に三十四年の歳月をかけて、全百巻の『近世日本国民史』を完成させている。 
 昭和十五年、石川武美は、この成箕堂文庫を蘇峰から譲り受け、ひとまず駿河台へ移したのは、石川が、蘇峰を助けて国民新聞社の副社長に籍を置いていたことによる。それまで成箕堂文庫は、蘇峰の居宅、大田区山王にあった。蘇峰は自宅を「山王草堂」と称したが、「草堂」は、詩聖の誉れ高いかの杜甫が、自分の庵をそう呼んだところに起源する。生涯漢詩を作り続けた蘇峰は、もとより杜甫に関する著作がある。 
 石川は、ちょうどふたまわり違う蘇峰に、心酔していた。『主婦の友社の五十年』に石川は次のように記している。
「徳富蘇峰翁が原稿紙に向かっているところは、まるで武者ぶりついているようだ。生みの苦しみの産婦のようだ。あれほどの大記者が、原稿紙に向かうと、必死の力を筆先にこめて書くのだ。全心をこめての執筆だ」
 明治から戦後という時代の大変革の渦中にあって、蘇峰は、大きな矛盾を抱えながら、ひたすら邁進した。その姿を、石川はかけがえのない師として見つめていた。そんな石川に応えたのだろう、蘇峰は主婦之友社から、『婦人の新教養』『夫婦の道』という本を出版している。
 石川武美の出版人としての経歴は、明治三十六(一九〇三)年に出版社同文館に入社したことから始まる。のちに羽仁吉一の『婦人之友』の編集者となるが、大正六年三月、自らの手で主婦之友社を創設、創刊雑誌『主婦之友』の発行部数をうなぎ登りに伸ばし、昭和十六(一九四一)年には百八十万部を達成、婦人雑誌ナンバーワンの地位を築いた、いわば立志伝中の人物である。 
 石川は、実業家としての才覚も兼ね備えていたのだろう。その辣腕は、いまはライバルとしてある出版取り次ぎ会社、『日販』と『東販』が、戦時中、国民精神総動員運動で合併、日本出版配給株式会社となった折り、社長を兼任したことでもわかる。 
 実業で成功をおさめた石川は、昭和十六年に石川文化事業財団を設立、まっさきに考えたのが、自分の商売を支えてくれた女性に対する還元であった。昭和二十二年、女性専用図書館「お茶の水図書館」は、そうしてつくられた。はたしてそこには、女性の生活に関する多種多様な文献を用意したが、蘇峰から譲られた成箕堂文庫も併設する。 
 石川は、プロテスタントの教えを深く信じるキリスト教徒でもあった。いわゆる進歩派である。してみれば、戦後の動乱期に、女性専用図書館創立の必要性を感じ取ったことも首肯できる。しかしながら、なにゆえ石川は、日本に儒教を伝えた古典中の古典である漢籍を中心に蔵書とした「成箕堂文庫」を「お茶の水図書館」に置いたのか。成箕堂文庫を別に建てて蘇峰を顕彰するくらいの財力と知恵を彼は持っていたはずである。
 それをせず、お茶の水図書館に併設した理由は、すなわち石川が、図書館の本来を知っていたからではないのだろうか。
 
 
 
「経」は人の道である 
 お茶の水図書館売却の価格は、およそ四十億円。蔵書数は、すべてをあわせて約十五万冊である。
  成箕堂文庫には、国宝や重要文化財に指定される書物が眠っているのだから、当然これくらいの価格にはなろう。しかも、旧蔵者は、著名である。今後あらためて、江戸から昭和にかけての歴史や思想の研究がなされるときには、蘇峰に対する再検討は、必然である。蔵書は、人の思想を研究するためには非常に重要なファクターである。すなわちこの「成箕堂文庫」は、中国や日本の古典籍を書誌学的、文献学的に利用するためだけにあるのではない。 
 大正十二(一九二三)年、国会の決議により、「東洋の文化を基礎として西洋の文化を吸収し、東西文化を融合して新しい文化の創造を図る」とする目的で創立された大東文化大学にとって、この「お茶の水図書館」はまさに建学の精神に基づくものである。しかして、その価値について説明をしようとするボクの前で、図書館の担当者は窮していた。
 もちろん、予算の問題もあろう。 
 しかし、なにより大きな問題は、それだけの書物をどこに置くかという、保管場所の問題であった。今、大学の図書館は、どこも本を収納する場所がなくて困っているのだ。重複分の蔵書を廃棄処分にしても、学生、教員の希望する新刊書を日々購入すれば、すぐに書庫はいっぱいになる。
 結局、この「お茶の水図書館」を擁した主婦の友社ビルの建物は、日本大学が買い取って、現在日本大学法科大学院の建物となり、主婦の友社はお茶の水図書館とともに駿河台の別の所に移転して存する。
ボクの思いは、残念ながら果たされなかったが、成箕堂文庫はいまだに残り、手続きさえ踏めば、閲覧はできる。 
 成箕堂文庫について語るとき、ボクは、中国古代にあった諺を思い出す。 
「子孫には、億万の金よりも一冊の本を残せ」——。
 財産を残しても、子孫のためにはならない。考えなしに使うと、何も残るものはないからである。一冊の本を残せば、学問を為し、役人にもなれる。だが、重要なのはそれではない。本は人間の精神にとって、最大の栄養である。一読しても繰り返し読んでも、長きにわたって精神を豊かにする栄養となる。
 中国で「本」といえば、すなわち「経書」と呼ばれる儒教の古典を指した。なるほど漢籍に教養を求めた蘇峰の成箕堂文庫には、こうした「経書」が多く収蔵される。 
「経書」という名のかかる所以は、「経」という文字にある。この「経」、仏教では「お経」、つまり仏典を指す。仏典とは、もちろん「学問」そのものである。
「経」という漢字は、もともと機織りのための用語で「縦糸」をいう。布を織るためにはまず「経」を引き、それに模様となるための横糸を入れていく。
 孔子に嗣ぐ中国の大思想家・孟子を育てた母親の超スパルタぶりを物語る「孟母三遷の教え」という故事はよく知られているが、ここに「経」を説く話しが伝えられている。
 孟子が母親の叱咤に音を上げて勉強をやめたとき、機織りをしていた孟子の母は、無言で機織りの縦糸を刃物でザクリと切るのだ。
 縦糸を切ってしまったら、いくら横糸を入れてもスルリと抜けてなにも残らない。
 このとき孟子は、母親の行動を、「おまえが勉強しないなら、私が苦労して機織りで稼ぐ必要はないのね!」などとは思わなかった。もっと深い母の教えを感じたのである。 
 「縦糸」の意味を持つ「経」は、「学問」そのものをも意味するとはすでに述べた。「学問」の本質とは、勉強自体や成績ではなく、伝説の時代から綿々と受け継がれてきた“決して忘れてはならないもの”を受け取り、次の時代へ伝えて行くことにある。つまり「縦糸」を表す「経」が、「学問」になぞらえられる理由は、「学び」の本質を意味しているからである。
 孟子は、母親の行動をこう受け止めた。
「おまえは“決して忘れてはならないもの”を、次の世代に伝えることができる場所に立っている。なのにいま、自らの縦糸を断ち切ろうとするつもりなのか?」
 こうして孟子は、またもや猛勉強をはじめるのである。
 はたして『聖書』の「伝道の書」には、「今あるのは、すでにそれ以前に起こったことである。いずれ起こることも、すでに起こったことである」と記されている。アジアのナンバーワンベストセラーである『論語』には、孔子の言葉として「述べて作らず」とある。かの聖人孔子をしても、自分に出来るのは、過去から受け継がれた思想を述べることだけで、新たに作ることはできないと言う。 
 孔子は、「儒」を確立したと言われる。その仕事は具体的には、それまで伝えられてきた書物を整理し、「儒学」の経典を編纂したことである。
「学ぶ」という言葉が「真似る」と同義であったことは、日本語のウンチクのひとつとしてよく知られているが、孔子のいう「述べて」とは、すなわち、過去から受け継がれた思想の「口真似」である。
 ここにこそ、図書館の本来の一端を見ることができるのではないか。 
 “決して忘れてはならないもの”は、本によって誰もが知ることができる。そのために本を揃えることこそが、図書館にとっては重要な仕事であろう。同時に一冊の本をして、それが“決して忘れてはならないもの”を伝えるに値するかどうかを峻別することが、図書館にとって、重要ではなかろうか。
 
 
ローマの蔵書
「本来」という言葉は、時間を問わない。ましてや国や民族を問わない。だとすれば、歴史上最大にして最高の図書館と称される「アレクサンドリア図書館」にも図書館の「本来」を探すことができる。 
 アレクサンドリア図書館は、紀元前三世紀の初め、プトレマイオス一世が起案し、エジプトのアレクサンドリアに建てられたとされ、古代ギリシアの文化・思想であるヘレニズムを研究するうえで、学問的に大きな役割を担ったと記録されている。
 そこには、約七十万冊の書物が蔵されていたと伝えられる。七十万冊とひとことにいうが、現在文部科学省が、大学の学部新設の際に必要と定める図書の数は四万冊である。七十万冊を単純に割り算すれば、十七・五学部が新設できる。さらにここには、つねにギリシャから当時のトップレベルの学者や文化人が招かれ、さまざまな議論が交わされていたとされる。
 つまり、アレクサンドリア図書館は、ほとんどの学問を網羅して余りある七十万冊を超える書物を抱えることで、“決して忘れてはならないもの”を次代に伝える機能を充実させていたと同時に、新しいもののなかから、“次代に伝えなければならないもの”を峻別する機能をも有すことで、エジプトのヘレニズム化の推進に貢献していたのだ。 
 はたしてボクらは、このアレキサンドリア図書館で果たされた研究成果をいまだに使っている。「アルキメデスの原理」で知られるアルキメデスはここに留学していたし、地球の直径を計算したエラトステネスや幾何を成したエウクレイデスなど、数多くの知識人もここで学んだ。 
 ひとは、ときとして「独創」を口にする。しかし孔子でさえ「述べて作らず」と言う。ましてや孔子は「温故知新」を標榜する。だとすれば、「独創」とは、過去から受け継がれたものを現代的な意義として認識し、次代へ伝えるための一端を担うという行為であろう。“決して忘れてはならないもの”は、我々のなかに、確実に、脈々と流れているのである。 
 残念ながらこの名高い図書館は、プトレマイオス朝の最後の女王であるクレオパトラの時代、ローマ軍の放った矢で焼失してしまう。だが歴史はいかにも皮肉である。クレオパトラを愛して斃れたシーザーは、アレクサンドリア図書館を真似て、ローマに大規模な図書館を建設すべく計画していた。この大図書館創設計画は、図書館長にマルカス・ワルロという人物を据えようというところまで進んでいたと伝えられる。 
 ローマ皇帝は、力や富ではなく、図書館を創設し、自分の名前を冠することで、その名誉を飾った。シーザーやエミリユス、シラといったローマの将軍たちは、戦いに勝つたびに、敵国から多量の書物を自国にもたらした。他国に攻め込み、領土を我がものとし、金品を奪い取るだけで終わりでなかった。そこにあった書物は厳重に梱包され、ローマへ送られたのだ。つまりローマは、蛮力によってのみ発展したのではない。書物を尊重する文化的な側面も発展に大きく寄与したのである。 
 しかして紀元四世紀頃には、ローマには市民に公開された図書館が二十八ほどあったことが、現在までに発掘された遺跡から知られている。図書館長の年俸は六万リブラ。現在の円になおすと約四千万円に相当する。また、ほとんどの浴場には、規模こそ小さいが、必ず、図書館や文庫が併設されていた。これほどまでに図書館は、ローマ人にとって身近で重要なものとみなされていたのである。
 さて、これらローマ時代に集められた蔵書の一部は、「ローマ法王庁図書館」に引き継がれて残っている。ローマ法王庁図書館の建築は、紀元三世紀、第三十七代法王ダマスス一世が発案し、紀元五世紀、第五十七代聖アガペトゥス一世の尽力をもって着手の運びとなり、十五世紀、第二二八代シクストゥス五世のときにようやく現在のような図書館として完成を見たという。 
 千年の時を経て完成したローマ法王庁図書館の蔵書の数は、はたして、いまだに判明してはいない。三百万冊程度ではないか、いやいや五百万冊は確実にあると研究者たちは勝手なことを口にする。 
 なかには日本の国会図書館とアメリカのワシントン国会図書館の蔵書を合わせたくらいだという研究者もいるが、ワシントン国会図書館の蔵書数は、じつは公式発表されたものの二倍に達するのではないかとさえ言われているのである。 
 ローマ法王庁図書館には、大航海時代以来各地からもたらされた本が、いまだ数多く木箱のなかで眠っている。 
 大航海時代、つまり、十五、六世紀の書物で、わが国に関係する最も有名なものは、キリシタン版であろう。 
 キリシタン版とは、室町時代末期のごく短い期間、ヨーロッパの宣教師がもたらした印刷機によって刊行された印刷物だが、日本を含めて世界の図書館に、キリスト教の教義を記した『どちりな・きりしたん』や『イソップ物語』、日本の古典としては『平家物語』、またキリシタンが日本語を学ぶために編纂した『落葉集』など約三十種類が現存する。こうしたなかで、「ローマ法王庁図書館」にだけ存在するものが、日本語をポルトガル語で解説した『日葡辞書』である。
 まさに当時の独創でありながら、“決して忘れてはならないもの”を伝えるに値する書物であることは、日本語を研究するためには不可欠の資料として、『広辞苑』を著した新村出や明治時代の在日英国外交官でヨーロッパにおける日本学の基礎を築いたアーネスト・サトウなどが、この貴重な書物を見るために、ローマに赴いていることでもわかる。
 
 
蔵書は情報ゲットの道具ではない 
 明治二十四年、帝国図書館は、国会の活動を資料情報面、調査分析面で補佐することを目的に設立された。その目的は現在にもそのまま継承されている。すなわち国会図書館の蔵書の目的は国の行政と無関係ではない。 
 してみれば図書の重要さは、必ずしも希少にあるのではないことがわかる。国会図書館とは、過去からの遺産として引き継いできたものをストックし、いついかなるときにも国の在り方として必要な情報をアウトプットするための機関として存在する。 
  今の世の中、インターネットの恩恵に浴さずに情報をゲットするひとは少ない。検索サイトで知りたいことを入力すれば、そこには無数の情報が一瞬にして現れる。
 国会図書館、国立博物館、京都大学など貴重な古典籍を所蔵する図書館のサイトでは、書物の写真を掲載して申請の必要もなく、全頁を自宅のプリンターで印刷できる仕組みさえ作られている。
 アメリカでは、情報はネットで得れば十分だと言う人が多くなったという報道がある。新聞が売れず、経費が激減し、ロスアンゼルス・タイムスやその他有名な新聞社の記者が多数解雇されることになったと伝えられた。
 情報化社会といわれて久しい。 
 世界は、他人より、いかに早く、正確な情報を手に入れるかによって、「勝ち組」と「負け組」に振り分けるレースをしているようにも思える。 
 こうしたレースが、公然と行われるようになれば、人を出し抜いてでも必要な情報を得ようするだろう。公共図書館の雑誌を切り抜くという事件があるのも、なんら驚くには値しない。 
 世の中がそういうふうになってしまったのだと笑って済ませられればいい。でなければ、法による裁きを待つしかあるまい。 
 なるほど、我々は図書館へ行ってそこの蔵書を読む。はたしてそれは、情報なのだろうか。だとしたら、インターネットではまだ十分ではないのだろうか。もちろん、自分では買えない本、あるいは買いたくないけど読みたい本を借りるという経済的な理由もあるが、読書の愉しみは、情報を得ることではない。それは、誰もがわかるだろう。 
 孔子はこういった。 
「子曰、道之以政、斉之以刑、民免而無恥。道之以、斉之以礼、有恥且格」(子曰く、道びくに政を以てし、斉ふるに刑を以てすれば、民免れて恥づるなし。道びくにを以てし、斉ふるに礼、恥ありて且つ格し) 
 大意は、民を導くとき、悪いことをしたら刑罰を与えるという方法をとれば、民はその刑罰を逃れることばかりを考えて恥じるという気持ちをなくすという意味である。 
ボクは、全国の図書館の司書たちにお願いをしたい。もしも図書を傷つける人々を見つけたら、法を説く前に、なにゆえその本を蔵したのか、その理由を説明して欲しいのだ。いかなる峻別が施され、その本があるのか。そして、公共図書館は、すべての人に平等に、本を愉しむ機会を与えているのだと。 
 幸いなことに、いまだに石川武美の意志は受け継がれている。武美は、女性にとって “次代につたえるべきなにか”が書かれた本を揃えた。だからこそ、婦人雑誌の編集者たちがいまだに通う。そして、日本人として“決して忘れてはならないもの”を持つものとして、蘇峰の『成箕堂文庫』を置いた。
 現在、石川文化事業財団では、成簣堂文庫セミナーで講演なども行われているし、そうした機会には、蘇峰が集めた成簣堂文庫の貴重な蔵書も見ることができる。また、女性専用の図書館では、明治・大正・昭和・平成を生きた女性たちの足跡とそれぞれの時代の生活文化を知るための厳選された図書が所蔵されている。 
  図書館の本来は、ここにこそ見ることができる。あとはこうした図書館を我々がいかに使うかという問題である。