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更新日 2017-01-31 | 作成日 2016-12-27

あこぎ

月刊「大東書道」

「趣味は?」と訊くと、「アコギをやっています」と金髪の女子学生が答えた。沖縄の海のような蒼い瞳をしている。もちろん、コンタクトレンズの色だ。もうちょっと鼻が高かったら、西洋人と思われそうな容貌の女の子だった。
 数日後、電車の中で「アコギ」と大きく書かれたギター専門店の中吊りをたまたま目にした。彼女が言った「アコギ」とは、「アコースティック・ギター」の略である。それはわかっているが、どうしても、「阿漕」という謡曲しか浮かばない。
 簡単にどんな謡曲か触れてみることにしよう。
 伊勢神宮の御膳調達をする伊勢湾に阿漕という漁師があった。ここは神のご威光で魚がたくさん集まってくる。神に奉納する魚を獲るための海ということで、人が食べるための漁をやってはいけないとされていた。だが、阿漕は、そのことを知りながら、魚を捕った。夜中、人が見ていないところを見計らって網を引き、数え切れない程の魚を漁してしまうのだ。それも一度や二度ではない。初めは、誰もそのことには気付いていなかった。けれども、そのうち、どこであんなに魚を捕ってくるのかと不思議に思われるようになった。「天網恢々疎にして漏らさず」という言葉があるが、いずれ悪事はばれてしまう。禁を破った阿漕は、戒められて海の底に沈められてしまうことになる。これが、地名として残り「阿漕が浦」となる。
 また、同じ題目で平安末期の歌人として知られる西行法師を題材にした逸話もある。
 これは、まだ西行が出家をする前、佐藤憲清【のぶきよ】と名乗って北面の武士だったころの話である。染殿という女房に懸想をして、しまいには病の床につく。それを哀れに思った染殿が、一夜限りの契りを結ぶ。そうとわかっておきながら別れ際に、憲清がまたの逢瀬をお願いすると、染殿はひと言、「阿漕であろう」と言うのである。憲清は、その言葉が何を意味しているかも知らぬまま、二度とは契れぬ哀しさがもとで出家してしまう。剃髪して諸国放浪、伊勢の国まで来てみると、馬方が馬に向かって「おまえみたいな阿漕な奴はない」と叱っている場面に出くわした。餌をもらったばかりの馬がまた餌をくれと嘶【いなな】いているのだ。ここで、はたと、西行は「阿漕」が「際限なくむさぼる」意だと気付く。染殿が「阿漕であろう」と言ったのは、謡曲「阿漕」のもとになった古歌、
 伊勢の海 阿漕が浦にひく網も 度重なれば あらわれにけり
を引いたものだった。……この歌さえ知らなかったことを恥じた西行は、それから歌の道へと深くのめりこんでいく。
「アコースティック・ギター」を「アコギ」と縮めて言う格好の良さ。しかし、その「アコギ」という短い言葉には、弾き語りの哀しいギターのような、阿漕や西行の織り成す人生模様のひとこまが、刻み込まれている。



おしんといえば

月刊「大東書道」

 悠仁親王がお生まれになった。御名前には「ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んでほしい」という願いを込められたそうである。今年生まれの子どもたちは、これまでもそうであったように悠仁様の御名前に因んで名づけられることが多くなるであろう。
 ところで、大正時代頃までに生まれた女性は、「おとみさん」、「おきくさん」「おさとさん」など、「おー○○さん」という名前が目立った。「お」は、親愛の意味を表す接頭語で、このように女性の名前に「お」がつけられ始めたのは、わが国では十四世紀、南北朝の頃からだったと考えられている。古くから中国で、親しい女性に「阿」という漢字をつけて呼ぶ慣習が、日本にも取り入れられたのであろう。
 そんな昔風の女性の名前で、先ず思い出すのはNHKの連続テレビ小説の主人公であった<おしん>こと、<田倉しん>である。世界五十九か国で放送され、苦難に遭いつつも決してあきらめない主人公<おしん>の姿が、日本だけではなく、国を越えて多くの人々の感動を呼び、ちょっとしたセンセーションを巻き起こした。
 <おしん>といえば、最近、友人からこんな質問をされた。薬の注意書きに「この薬を服用して悪心【右傍点】を感じた場合にはただちに使用をお止め下さい」と書いてあったが「悪心」ってなんのことだろう。
「悪心」は、「おしん」と読み、「吐き気などで気分が悪くなる」ことをいう。「悪寒」を「おかん」と読むのと同じ用法である。「悪」は「アク」と読めば「わるい」という意味であり、「オ」と読めば「むかむか」するという意味になる。この「アク」と「オ」の区別がつかなくなってしまったために、製薬会社は「悪心」を「気分が悪くなった場合には……」という平易な文章に直したに違いない。もしかしたら、「この薬を飲んで、悪事を働くよこしまな心が生まれるのでしょうか」という問い合わせもあったのかもしれない。
 逆境の中でも明るく健気に生きたおしん……橋田壽賀子の原作では、おしんは一九〇一年生まれとなっている。八十三歳で波乱万丈の人生を終える<おしん>とほぼ同じ頃、薬の注意書きから「悪心【おしん】」の文字もなくなってしまった。ただの偶然と思えないのは私だけであろうか。




南蛮は南蛮でも

月刊「大東書道」

  スーパーでは、たくさんの種類の野菜や果物が、旬に限らず、いつの季節も棚を彩っている。見慣れたものばかりだが、いろいろな国々から渡って来て、わが国に根付いたものも多い。
 薩摩芋は、じつは中南米の原産らしいが、ヨーロッパを経て中国、琉球に伝わり、薩摩に入った。そして、青木昆陽(1698〜1769)が救荒作物として普及に努めたことから全国に広がった。当時は、「唐」つまり中国が原産地だと考えられていて、「唐芋」とも呼ばれていた。
 「西瓜」や「胡瓜」も同じように旅をして渡って来た。「西」や「胡」がつく名前をもつ食べ物は、中国人が、ゴビ砂漠より西のトルコ系ウィグル人たちを「西戎」と呼んだことに由来する。「西瓜」や「胡瓜」は、これらのシルクロードを経て中国に伝わり、その後、我が国に入って来た。
 それでは「南」がつく食べ物はどうだろう。例えば「南瓜(かぼちゃ)」は、ヴェトナム、ビルマ、フィリピンなど南方の諸国から伝わった。これは、こうした南方の国を「南蛮」と呼んだことに由来する。
 では、「鴨南蛮」も、南方から伝わった食べ物なのだろうか。ボクは、てっきり「南蛮カステラ」同様、江戸時代、オランダ人やポルトガル人が、鴨料理のひとつとして日本に伝えたのかと思っていたのだ。
 ところが、この「南蛮」とは名ばかりで、「鴨南蛮」の「ナンバン」は大阪「難波」の「ナンバ」が「ナンバン」と撥音便してしまったものなのである。そして、この「ナンバン」とは、じつは「ネギ」の別名である。大阪の「難波」は江戸時代、見渡す限りの葱畑が広がっていたという。そこで関西の人は「ネギ」を「ナンバ」と呼んだのだという。 アツアツの関西風のだし、脂ののった鴨肉、シャキシャキ音をたてそうなネギにさっさと山椒をかける。どんぶりから美味しい匂いの湯気がゆるりと立ち上るのが今にも見えそうだ。南蛮は南蛮でも鴨がつくと、名前からして食欲をそそるものである。



飽くなき欲望

月刊「大東書道」

  女性にとって、「いつまでも美しくありたい」というのは永遠のテーマである。理想の自分に近づくために、女性たちは、男には到底真似が出来ない努力と精力とお金を注ぎ込む。
 内面を磨けば、おのずと自然美が外見にあふれ出すとは、道学先生の言葉である。それは、基礎化粧と同じで、当然大切なことだと認識しているが、美に関する情報があふれている昨今では、それだけでは物足りない。
 ある女子学生は、美しさは内面からと言われて「はい!コラーゲンを毎日、寝る前に飲んでいます」と自慢げに答えたという笑い話がある。また、昨今では、「プラセンタ」という聞き慣れないものまで、栄養ドリンクのごとく手軽に手に入る時代になった。
 ところで、芥川龍之介の最晩年の作品に「年末の一日」という珠玉の小品があるのをご存知であろうか。彼特有の衒学的筆致をみじんも滲ませない淡々としたこの作品は、夢の中で、師、夏目漱石の墓を訪ね、疲れあぐねて帰路につくという、あの世とこの世の間を彷徨【さまよ】う芥川の魂をそのまま書き写したものである。
 主人公の「僕」が、八幡坂の下で箱車を引いた男を見るという場面がある。
「箱車はちょっと眺めた所、肉屋の車に近いものだった。が、側へ寄って見ると、横に広いあと口に東京胞衣会社と書いたものだった。僕は後から声をかけた後、ぐんぐんその車を推してやった。それは多少押してやるのに穢【きたな】い気もしたのに違いなかった。しかし、力を出すだけでも助かる気もしたのに違いなかった」。
 ここに出てくる「胞衣」とは、漢語では「ホウイ」とも読むが、平安時代から和語で「えな」とも呼ばれている。胎児を包んでいる膜や胎盤などの総称で、今日の「プラセンタ」のことである。
 これが書かれた昭和二年当時、お産は、産婆の手を借りて自宅ですることが普通だった。
「胞衣納め」といって、産後五日、または七日に桶や壺などに納め、子供の成長を願い、恵方を選んで埋める風習が多かったというが、「胞衣」は、芥川が書くように専門の業者によって集められ、処理されることもあったのであろう。処理と言っても、どのようにされていたのかは定かではない。 
 美を追求する現代の女性が、その当時に戻れるのであれば、処理される寸前のプラセンタを我先にと、一生分手に入れるかもしれない。
 母性として存在したものが、今や美しさを得るためのものへと変貌する魔術に、驚きとともに女性の「美」に対する飽くなき欲望を思うのである。


イレズミとお祭り

月刊「大東書道」

  最近、若い女性がイレズミを入れているのをよく見かける。シールなのか、本物のイレズミなのかわからないほどの仕上がりだ。アメリカでは、近年、イレズミを入れる人が急激に増えたという報告がある。日本での流行も、おそらく、その影響なのであろう。
「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」と、『孝経』という中国の古典には記される。親からもらった身体を傷つけてはならないというこの教えは、「親孝行」が家族関係の基本で、ひいては国家の安定、ひるがえって人々の幸せにつながると説く。それゆえに、古代の中国では罪人の眉間にイレズミをした。眉間は、けっして隠すことができない。罪を犯した上に親からもらった身体まで傷つけてしまった人は、「孝」を損なったアウトローとして生きることを強いられたのだ。
 ところで、明治十九年三月五日付けの「朝野【ちょうや】新聞」を見ると、イギリスでは、戦死の際、身元確認のために腕に自分の名前を彫ることが行われているとして、横浜在住のワクネル氏が、浅草の刺青師三名を三年間の契約でロンドンに連れて行くことになったという記事が載っている。ヨーロッパではクリミア戦争か漸く終わったばかりである。
 ご存知の通り、イギリスではもちろん、英語圏ではイレズミのことを「tatoo(タトゥー)」と言う。これはフランス語の「tatau(タトゥ)」が英語になったものである。しかし、このフランス語の語源はというと、南太平洋の楽園、フランス領ポリネシアのタヒチで使われる現地語である。タヒチ人は、祭りの時には極彩色のイレズミが欠かせないそうだ。
我が国でも祭りの御輿を担ぐ威勢のいいお兄さんたちの法被【はっぴ】の下からチラリと龍や虎などの彫り物が見えることがある。都内の「阿波踊り」をはじめ、「ワールドカップ」「クラブ」「パーティー」など、いたるところに「祭り」がある。戦死の身元確認のためではないとすれば、現代のイレズミは、日常とは異なる世界へとワープするための通行手形であるのかもしれない。
 龍や虎、牡丹などとは違って梵字【ぼんじ】や漢字のイレズミまで見るようになった。価値観の多様化と言えばそれまでだが、いずれにせよ、我が国では「孝」という概念は、今となっては、もう胸に刻まれることは無くなったのである。