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更新日 2017-01-31 | 作成日 2016-12-27

和歌はこんなに面白い

 
新潮45
 
 
 
歌合わせ
 毎年お正月が来ると宮中では「御歌始」が開かれる。テレビでも放映されるので観られる方も多いだろう。
 今年の歌題は、「歩み」。
 御製は、
 戦(いくさ)なき世を歩みきて思ひ出づかの難(かた)き日を生きし人々
 というものであった。
 御歌始が始まったのは、鎌倉時代中期、亀山天皇の文永四(一二六七)年正月十五日に催されたのが記録の上に残る最古のものだと言われている。
 以来、この御歌会始は江戸時代を通じほぼ毎年催され、明治七(一八七四)年には一般の詠進が認められ、皇族・貴顕・側近などだけでなく、国民も宮中の歌会に参加できるようになった。そして大正十五(一九二六)年に皇室儀制令が制定され、その附式に歌会始の式次第が定められ古く「歌御会始」と呼ばれていたものは「歌会始」という名称に変更された。また戦後は宮内省にあった「御歌所」は廃止され、歌題は平易なものが選ばれるようになったという。
 「歌会始」は、言ってみれば「書き初め」みたいなもので、二月からは月例の歌会が行われるらしい。
 宮中で行われるこうした行事に参加したことはないが、ゆかりのある方からお話を頂き、歌会の顧問をやらせて頂いている。
 さて、この会は「歌会始」のようにすでに作って来た和歌を披露するというのではなく、平安時代から行われてきた「歌合」という方法によって歌を作る。
 ホテルの離れにある座敷にメンバーが二十数人集まると、雑談を止めて右と左に思い思いに座り、一番の年輩で私家版の歌集なども多く出されている方が判者として上座に腰を下ろす。そしておもむろに懐から紙に書かれたその日の歌題を披露する。
 あとは上席の右の方、左の方という風に順番に歌をサラサラと筆で書き、声に出して詠う。老年の判者は、目をつぶって鼻の下に生えた白い髭を撫でながら、一組の右左の人が詠んだ歌に判定を下すのだ。
 「右の勝ち」……そう言うと、彼は黒丸印を白い紙の右側に書き入れる。
 何を持って「勝ち」とするのか、彼は一切説明しない。そして負けた方も、頭を掻くどころか、口も尖らせず、ただ目を閉じて次の順番が来るのを待つ。「歌合」は、ゲームである。右の方に黒丸印が増えるか、左の方に増えるか……彼らは二時間で三周ほどしながら右左交互に歌を詠み、黒丸の数が増えるのを競う。しかし、ここにはひとつの原則がある。彼らは「歌題」だけを頼りに勝手に和歌を作るのではない。彼の前に詠われたものに答えるように、まるで対話をするように自分の歌を作らなくてはならない。 
 
「漢詩は外」と「和歌は内」
 平安時代に始まった「歌合」は、天皇家を中心に置いた宮廷という場に発達した日本独自の文学サロンの遊戯である。そして遊戯であると同時に、これこそが彼らの重要な仕事でもあった。本当か嘘かは分からないが藤原清輔の『袋草子』に書かれるように、壬生忠見は天徳四(九六〇)年、内裏歌合に出詠した時
 恋すてふ わが名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか
 (恋をしているという評判が早くも立ってしまった。人知れず、ひそかに思い始めたのに)
という歌に
 平兼盛の歌
 忍ぶれど 色にいでにけりわが恋は ものや思うと人の問ふまで
 (密かに隠していたはずなのに、私の恋心は顔色や表情に表れてしまっていた。「好きな人でもいるのでしょう」と人が尋ねてくるまでに…)
 を当てられ、負けて、ついには食事も通らなくなって死んでしまったとか。
 ただ、当時、男は必ず漢文を習い漢文で読み書きをするというのが決まりであった。これはしかし、漢文や漢詩というのは政務であって中国を中心とした東アジア圏での日本の立場を表明することを本来の目的としたものである。
 七五一年に成立したとされる『懐風藻』開巻第一には、大友皇子の詩に天智天皇を賞賛した「侍宴」という詩が載せられる。
 皇明光日月     皇明日月【こうめいひつき】と光【て】らひ
 帝徳載天地     帝徳天地【あめつち】と載せたまふ
 三才並泰昌     三才並【みな】泰昌
 万国表臣儀     万国臣儀を表【あら】はす
(天子の御稜威は日や月のように照りわたり、天子の徳は天や地のように広大である。天地人三才はすべて安らかで盛んであり、すべての国は来貢して臣下の義を表し示す)
 
  これは、当時新羅や渤海等から朝貢するいわゆる「蕃国」との関係に於ける天皇の地位を表明したものであろう。
 近江奈良朝から平安末期にかけ、『懐風藻』を始め、『経国集』『文華秀麗集』、『本朝文粋』など漢詩文の詞華集【アンソロジー】が編纂されている。これらはすべて書名や、また各文集に収められた詩文の分類にしても「序」「詞」「行」「讃」「論」「銘」など中国で作られた書物を模倣したものである。漢詩を作ること、そしてそれを詞華集として編纂することは、対外政策を視野に入れた彼らの仕事であったと言えるだろう。こうした伝統は日露戦争で旅順陥落を果たし、明治天皇の崩御に当たって殉死した乃木希典にまでつながる文学の系譜であろう。
  崚崢富岳聳千秋   崚崢たる富岳、千秋に聳え
 赫灼朝暉照八洲   赫灼たる朝暉、八洲を照らす
 休説区区風物美      説くを休めよ区々風物の美を
 地霊人傑是神州      地霊人傑、是れ神州
(高く美しい富士山は千年も変わらぬ姿でそびえ立ち、日本の名にふさわしく赤々と朝日が大八洲の国を照らしている。あれこれと風景の美を言うな。土地も霊も人物も、優れているのがこの日本、神州の神州たるゆえんなのだから)
  さて、これに対して和歌は?
 これは、内政である。
 ……とは、言っても、いやはや、天皇が作ったとされる歌に、女を誘う歌、艶事の歌がなんと多いことか。すでにこうした明け透けで艶っぽい、官能をくすぐるようなご先祖様たちの歌はこれまでも多く紹介されているが、『万葉集』などをひもとけば、驚くほどにこうしたものが掲載されている。これをもって内政とするのか……!?
 『源氏物語』や『蜻蛉日記』などを読めば、これが内政的な仕事であったことはよく分かるはずである。日本中世史家に指摘されるように、彼らが生きた平安時代は、まさに母系というものから成り立った社会だった。男は妻問という結婚によって身分の高い家柄の女性と結婚し自分の地位の足がかりを作り、そして政治的な活躍の現場を作ろうとする。たとえば、醍醐天皇に入内した隠子が寛明親王(後の朱雀天皇)と成明親王(後の村上天皇)を産むことによって藤原氏の繁栄が約束されることになったことなどを考えればこれは明らかであろう。藤原時平の妹である隠子【おんし】は、この結果、「大后」と呼ばれるにさえいたるのだ。
 また『源氏物語』というフィクションはさておき、『蜻蛉日記』の中で、作者、藤原道綱の母は夫兼家に両手が必要なほどの「妻」があることを記している。女性が家を出ず、男が通ってせっせと子供を作り増やして行くという社会形態は、いまだに世界中にチラホラと残っているわけだが、こうした行動が行われるのは天皇や王様という地位にあったとしても、決して例外ではない。むしろこうした人たちこそ、自分の血を代々伝えるためにこそ、美しい女を抱え「玉のような子供」を作ることが必要だった。
 『万葉集』で「相聞」とされ、『古今集』で「恋」に分類される歌の数の多いことは、和歌の伝統が漢詩に於ける「外交」という世界に対して「国見」という天皇の行幸が子孫繁栄につながる内政と深く関係したことと無関係ではない。それは、たとえば平安中期に作られた藤原明衡『新猿楽記』に描かれる三人の女性を観ても分かることである。
 このフィクションの主人公、四十歳になる右衛門尉【うえもんのじょう】は、三人の妻を抱えている。一番目の妻問婚の女は、自分よりも二十歳も年上の恐ろしいほどの女。しかしこれは地位を得て中央の官僚となるための足がかりとして結婚したまでである。二番目の女は右衛門尉と同い年で彼女が彼の家を取り仕切る。衣食住の世話から年貢物の売り買い、馬鞍、胡?【ころく】など武具の手入れ、従者の面倒などまで見てくれる。そして三番目の女はまだ十八歳……夜な夜な彼は、彼女のところに通うのだ。
 こうした母系社会で生きていくとしたら、男は、必ず女を口説き、心をくすぐり、そして射止めるための女に対する歌がどうしても必要であろう。
 
 女心をくすぐる言葉
  建久四(一一九三)年に行われた『六百番歌合』という本がある。後鳥羽上皇の勅撰『新古今和歌集』編纂とも直接関わり、良経、定家、家隆、季経、慈円、寂蓮など錚々たるメンバーが左と右に分かれて歌を詠み、それぞれが相手の歌に対して善し悪しの意見を述べ、判定方は、当時の歌壇の第一人者俊成が執り行っている。言ってみれば中世の和歌極盛期の歌合わせの記録である。岩波文庫、最近では『新古典文学大系』にも収められているから、読まれた方も多いであろう。
 この中には、これじゃぁいくらなんでもダメだろうとボクにさえ判定できそうな歌も何首か見えている。たとえば、「海に寄せし恋」という題で出された左側、顕昭の歌。
 鯢【くぢら】とる さかしき海の底までも 君だにあらば 波路しのがん
  (荒れ狂う海の底までも、そこに君がいるとすれば、波路をしのいでボクは行く!)
 右側の選者、寂蓮は、この歌に対して「恐ろしくや」と意見を言う。そして判定の俊成もまた、「『万葉集』にも『鯢を取る』という句はあるけど、何とも恐い。歌というのは優艶でなくっちゃねぇ……」と言う。
 俊成が言う『万葉集』に見えるという歌は
 鯨魚【いさな】取【と】り、海や死にする、山や死にする、死ぬれこそ、海は潮【しほ】干【ひ】て、山は枯【か】れすれ (巻十六)
 (海は死にますか 山は死にますか 死ぬからこそ、海は潮が干いて、山は枯れてしまうのです)
 というようなものであろう。「鯨魚【いさな】取り」という言葉は「海」に掛かる枕詞で『万葉集』には十一首掲載されるが、『古今集』や『新古今集』にはこの枕詞を使って詠われたものは一首もない。小田切秀雄氏『万葉の伝統』などで言われるように、生活の匂い、直接の情緒や感情といったものが支えていた万葉の世界は、平安中期までに情趣化されて消えて行ったというのが主な原因でもあろう。
『万葉集』(巻十一)、柿本人麻呂の歌
 水【みず】の上【うえ】に 数【かず】書【か】くごとき我【わ】が命【いのち】 妹【いも】に逢【あ】はむと うけひつるかも
 が、『古今集』(巻十一)では、
 ゆく水に 数書くよりも はかなきは 思はぬ人を 思ふなりけり
 (流れゆく水に数を書くよりももっと空しいのは、自分を思ってくれない人のことを、自分ばかりが思うことであるよ)
 と読み替えられたりしている。
 しかし、それと同時に『六百番歌合』には、「この言葉は耳障り」とか「その言葉は恐ろしい」、「言いにくい」などという批評が数多く載せられる。こうしたことからすれば言葉に対する感覚もまた、おそらく万葉の時代とは異なったものへと変化していたのであろう。
 柿本人麻呂の「水の上に」の歌は、よく知られるように、大乗仏教の経典である『涅槃経』涅槃経に見える「是身無常 念念不住 猶如電光暴水幻炎 亦如描水随画随合(人生は無常である。時間は決して止まらない。まるで稲妻や滝の水、陽炎のように、また水に絵を描いてもすぐに流れて消えてしまうようなものである)」という漢文に典拠がある。
 そして人麻呂の歌は訓読では、上のように読まれるが、『万葉集』の本文では
 水上  如數書  吾命  妹相  受日鶴鴨
 と、万葉仮名で書かれている。今となっては、この上の訓読が本当に正しいのかどうか、確かめることはできないけれども、まず「水の上に」という書き出しからして、これは五七五七七という平安の前期頃に確立する和歌の原則からして字余りとなる。
 また、最後の「うけひ」という言葉は、人麻呂の頃に「神に祈る」という意味と同時に「寝る前に祈って寝れば、夢の中で必ず会える」という背景のある言葉であった。だからこそ、人麻呂のこの歌には涅槃経の「猶如電光暴水幻炎(猶ほ電光、暴水、幻炎のごとく)」という文が夢と重なって描かれているのだが、「うけひ」は平安時代に入ると「呪い」を意味するようになっていた。
 こうした言語の変化が万葉の時代から平安期までには起こっている。その大きな原因は万葉仮名の時代に使われていたいわゆる「上代特殊仮名遣い」の消失である。これが消えることによって平安時代の人間たちは、女性を中心とした和歌の生きることができる日本語を作り出したのではないだろうか。古今集の「序」には「万葉から天皇十代、百年の時を経て(筆者注−実際は約百五十年)、こららの歌を知る人、読む人、多からず」と断絶のあったことが記されている。
 
 水茎の行方
  本来、和歌は万葉の時代から男が女に、女が男にと、心を伝える目的で作られた。しかし……発掘が進んでも、そんなものが書かれた和歌が木簡では出土しない。紙がなかった時代、どうやって彼らは、相手にそれを伝えたのだろうか。「和歌」というくらいだから口で歌ったのだろうか。それはどのような音だったのか……
 『万葉集』、『古事記』、『日本書紀』にそれ以後の日本語とは全く異なる複雑な音の体系(これを「上代特殊仮名遣い」と呼ぶ)があったことを証明したのは、戦後まもなく亡くなった橋本進吉博士である。
 博士は、江戸時代後期の国学者、石塚龍麿の研究をもとにこれを考証し、また有坂秀世博士はこれを押し進め、結局キヒミ、ケヘメ、ア行のエとヤ行のエ、コソトノヨロモの十三の仮名は乙類と甲類に分類される異なった音が存在したと推定した。
 たとえば、「雪」の「キ」は甲類、「月」の「キ」は乙類となり、前者は万葉仮名の漢字で「企、岐、祇、」と書かれるのに対し、後者は「奇、綺、騎、基、記、紀」などの字が当てられて、決して混同しないというものである。「キ」の甲類の発音は「ki」、乙類の発音は「kI」。これらは中国の隋頃の漢字の発音体系と非常に近似したものであるとされる。このように母音に「i」と「I」の違いがあるように「e」と「e」、「o」と「o」と八つの母音があったと有坂博士は述べられる。
 ところが、こうした複雑な音韻体系は平安時代初期には消失する。どうしてこれが消失したのか……これについては、松本克己、森重敏両氏等に研究があるが、最近ボクは、こうした上代特殊仮名遣いと呼ばれるものは、じつは帰化人がこれらの書物を編集したために起こったことではないかと考えている。きっと国語学の先生たちからは大目玉を食らうに違いないが、日本人にとっては、この上代特殊仮名遣いという書き分けははどうでもいいことではなかったのか。
 もちろん、書き分けがあることによって勝手な解釈から免れるという利点もある。たとえば、「天皇」や「皇位の継承者」を「日継ぎ」と呼ぶが、これを「神火を継承するから」という意味で「火継ぎ」という語源解釈をするのは誤りである。なぜなら、「日」は甲類の「Fi」、これに対し「火」は乙類の「FI」という両方相容れない音を持っていた、など。
 しかし、「いろは歌」や五十音図が作られる頃には、日本人が彼らの口で話し、耳で聞くように自分たちの文字で書くという技術を編み出し、それで文章を書くことができるようになっていたのではないか。帰化人は母音を八種に聞き分けることができたとしても、日本人には本来、それを聞き分ける必要がなかったのかもしれない。
 たとえば、アメリカ人ヘボンによって一八六七年に出された『和英語林集成』の第三版が現在日本で公式に使われる「ヘボン式ローマ字」の基礎になるのだが、その以前にもフランス式、ドイツ式、オランダ式のローマ字で日本語が写されている。これらを見れば、「わたしが」というときの「が」を「+a」と記したりしているものもある。実際の発音から言えば、おそらく間違いはないであろう。しかし、こうした「んが」という音を書き分ける必要が日本人にあったのかどうか……、はなはだ疑問に思うのだ。
 
 和歌はもちろん始めは口頭で歌われたものであったろう。しかし、平安時代になって日本人が自らの文字を持った頃と時を同じくして、書写媒体としての紙や筆も整い初めていたのではないだろうか。口内の調音、他の言語との比較という点からしてもと/a//i//u//e/oいう五つの母音は、非常に安定性をもった体系である。
 こうした母音をもとに五十音図、いろは歌が日本人の手で作られたこと、これは日本語史という点からしてみれば、まさに古代からの脱却であったと考えられるのである。
 「みずくきの」という枕詞がある。
 大夫跡 念在吾哉 水莖之 水城之上尓 泣将拭
 ますらをと 思へる我れや 水茎【みずくき】の 水城【みずき】の上に 涙【なみた】拭【のご】はむ   大伴旅人 (巻十六)
  (君との別れに、ますらおと思うこの私までがこの水城の上で涙をぬぐってしまいます)
 
 「水茎」は当て字である。本来はおそらく「水漬【つ】く城【き】」で、「水に浸るところに組んだ軍事上の櫓」のようなものであったのだろう。これは敵を見るための岡や城を指す枕詞であった。しかし、平安時代中期に作られた『古今和歌六帖』や『源氏物語』ではこの「水茎」は、「茎」という長いものから「筆」という意味に転化している。
 かひなしと 思ひな消ちそ 水茎の あとぞ千とせの形見ともなる
  (どうしようもないなんて思わないでください。筆の跡は千年後にも形見となるものなのですから)
 
 万葉の時代にあっては男が漢文でしか書けなかったものが、平安期になって女手による紙に書かれる平仮名の文学を生み出したことは、こうした情趣の細やかさを表現する可能性を日本語の中に広げたと言えるのではないだろうか。
 
 平仮名の機能
  前々号で筆者は、カタカナは日本語の世界を取り巻く外界に対する砦であり、同時にこうした文字記号があることによって日本語は外国語を受け入れる素質に恵まれていると書いた。
 さて、右脳は音楽脳、左脳は言語を司る脳であることは今や定説となっているが、大脳学者角田忠信氏『日本人の脳』によれば、「アー」や「ウー」などの長母音あるいは鳥の声虫の音を、日本人は左の言語脳で聞き、日本人以外の東洋人も含めた全ての外国人は右の音楽脳で聞くという。その原因は日本語が母音言葉であるためであるとし、虫の音を外国人は注意しなければ聴けないのに、日本人は無意識のうちにこれを聞き取る能力に長けていると述べられている。
 外国語に比較して日本語の持つ特徴のひとつに、オノマトペ(擬音、擬態語)の多さが挙げられる。これは角田氏の言われるようなことが原因なのではないだろうか。「チンチロリン」「ビシャビシャ」「ヌメヌメ」……こうしたオノマトペとは日本語になりかけのまだ生まれたばかりの裸の言葉である。しかし「ヌメヌメ」は、動詞「滑【ぬめ】る」や形容詞「滑【なめ】らか」という立派な日本語へと成長する。フランス語やドイツ語などにも同じようにして作られたものがないとは決して言わないが、日本語にはオノマトペから派生して作られた言葉がとても多い。
  それではこうして作られる日本語のリズムとはどういうものか。
 武満徹氏によれば本来沖縄から入って来た三味線は八八八六のリズムを持っていたものが、江戸ではいつのまにか五七五七七というリズムに変わったという(田中優子『江戸の音』参照)。日本語は名詞において三音ないし四音節、形容詞では四音節、動詞で三音節というのもっとも多い。そして名詞には必ず一音節の助詞(古代にあっては「こそ」「かは」など二音節のものもある)がくっつく。……とすれば、放っておけば自然に五七調のものになり、演歌や歌謡曲でもこうした五七の音節で作られたものがもっとも日本人の耳には聞こえやすいということになろう。これの五七のリズムは『万葉集』から『古今集』へと移った時に確立する。五七のリズムに乗せて、こうした動詞や形容詞がいかに文脈のなかで命を吹き込まれるか、女性を中心とした社会のなかで歌われる「和歌」が、それを育くむ場所として提供されたのではなかったのだろうか。
 最後に鎌倉時代の歌論書『野守鏡【のもりのかがみ】』に見える藤原保昌が和泉式部に歌を直された話しを引こう。
 早朝に おきてぞみつる梅花を 夜陰 大風 不審 不審よ
  という保昌の歌を和泉式部は
 あさまだき おきてぞみつる うめのはな よのまの風の うしろめたさに
 と直すのだ。
 たとえこれが架空の話しであったとしても、これは、平安前期から中期にかけての典型的な日本語環境を示すたとえ話だろうとボクは思う。
 当時の和語にとっての漢語とは、ヨーロッパ各地の俗語に対するラテン語のようなものであった。政治という間違いを犯すことが許されないような場所ではこうした「グラマティカ」と呼ばれる正式な漢文やラテン語を使う必要がある。しかし心を内面へと向けて行くという点を考えれば俗語の育成も忘れてはならない。ダンテが当時公用語であったラテン語ではなく口語のトスカーナ語で『神曲』を書いたことと、保昌の歌を和泉式部が和語に直したという話しはどこか共通したところがあるような気がするのだ。
 歌会とは、和歌を作りそしてそれによって日本語を鍛える場所である。しかしこうした場に集まることで人は言葉だけではない、その周辺にある情報を交換し、そしてそれを別の世界へ運んでいく。学問の世界でもネットワークという言葉が最近多く使われるが、男性と女性、過去と現在、そして社会とをうまく繋ぐ世界を織りなす根幹に「和歌」は存在したのではないのでなかろうか。