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更新日 2017-01-31 | 作成日 2016-12-27

高島槐安と幻の『老子道徳経』 

 
勉誠出版「アジア遊学」
 
 はじめに
 東京国立博物館に、中国明代の書家、文徴明が書いた「楷書離騒経巻」が所蔵され、ときどき常設展などで展示されている。
 文徴明(一四七〇〜一五五九)名は璧、字は徴明、衡山また停雲生と号した。明代中期、蘇州の人、文墨に名を馳せた。特に書法に優れた。また画も能くし、沈周・唐寅・仇英と並んで明の四大家と称される。東博にある「楷書離騒経巻」は、彼が八十三歳の時、楚辞の離騒経と九歌の全文を烏糸欄を施した料紙に、書写した書巻。齢九十にしてなお蝿頭の小楷をよくしたと伝えられる文徴明の筆画をゆるがせにしない謹厳な書法で書かれた一品である。
  そして、展示されるこの書幅の側のプレートには「高島菊次郎氏寄贈」と記されている。
  高島菊次郎、号を槐安、大正三(一九一四)年、四十歳で三井物産から王子製紙取締役に就任して以来、王子紙が巨大化したコンツェルンになる時代を駆け抜けた人であった。ひとは彼を製紙王と呼んだ。
 自ら号した「槐安」の「槐」はエンジュという木。わが国ではニセアカシアとも呼ばれ、初夏に白い花をつける札幌駅前通などの街路樹に見られるものである。
 高島氏は、麹町に住んでいた頃、昭和七(一九三二)年、五・一五事件で殺された首相犬養毅の小石川邸宅門前のエンジュを譲り受けて自邸に移植し、住まいを「槐安居」と名付けた。犬養毅と高島氏は、書画を通じてお互いの家を行き交い、人にあだ名をつけて談笑しあうほどの仲であった。
 氏は、しかし、後年こうも述べている。「槐の字は<木の鬼>と読めないことはない。<鬼>は、中国では<霊魂>という意味である。紙を作るために、私は多くの木の命を絶ってしまった。こうした木の霊を安んじさせるという意味だ」
 高島氏が代表取締役を務めた王子製紙は、明治四年、明治財界の大御所渋沢栄一によって創業された製紙会社である。会社設立の願い書は明治五年に大蔵省紙幣寮に提出され、翌六年、許可が下りている。荒川の河川敷に近い東京市王子村に工場を建て、英国製の抄紙機一台を置き、その試運転を明治八年七月十二日に行った。
 王子製紙は創業当時「抄紙会社」といった。「抄紙」とは「紙を漉く」こと。和紙は、ドロドロに溶かした植物の繊維を絡ませるために木枠の中に入れた簀の子で一定の厚さに漉いて作られる。しかし洋紙は、化学的な方法で繊維を取り出し、水分を脱落させるなどの作業を機械で行い、シート状の巨大な紙を作ることができる。
  わが国は、明治時代、洋紙の製造によって近代化へ突入していこうとした。和紙で作られていた藩札が、紙幣寮で地券や印紙類が洋紙で作られるようになり日本銀行券へ、また瓦版が新聞へ……。そして洋紙は、日清戦争の頃から次第に戦争には不可欠の物資となっていた。
 そうした時代、しかし、高島氏が好んで読んだのは漢籍であった。そして氏は、洋紙ではない伝統的な方法で作られた手漉きの紙に書かれた書画を愛された。
 昭和四十四(一九六九)年、九十五歳で亡くなられた高島菊次郎氏の遺族は、翌年、氏が所蔵された蔵書約七千冊を、大東文化大学図書館に寄贈された。その中に中世日本の学問の一端を手繰るのに興味深い室町時代の『老子』の写本が一冊入っている。
 大東文化大学への蔵書寄贈の仲介は、当時外国学部中国語学科の教授であり、出光美術館顧問の杉村勇造博士がされた。中国美術・中国文化史の専門家であった杉村博士は東京国立博物館に勤務されていた頃から、高島氏と深く交際があった。昭和四十二(一九六七)年、氏が中国宋・元・明・清時代の書画法帖のコレクション約四百点を東京国立博物館に寄贈されたのもこの縁による。
 
 洋紙の製造
 後、製紙王となる高島氏が生まれた明治八(一八七五)年、世の中はまだ、和紙の時代である。新聞が発行されたとはいっても洋紙はまだ使われない。
 明治元(一八六八)年、政府が京都で刊行した「太政官日誌」、幕臣柳川春三らが江戸で出した「中外新聞」などはもとより、明治三年十二月に出たわが国最初の日刊紙「毎日横浜新聞」、同じく日刊紙として翌年出された「新聞雑誌」、五年の「東京日日」「郵便報知」「日新真事誌」なども、すべて和紙に印刷されている。一枚刷りの瓦版、印刷が木版であれば、これで十分だった。
 新聞で洋紙が初めて使われたのは、「東京日日新聞」の明治六年二月である。目くるめく時代の変化に記事は次第に多くなり、その流れに追いつこうとする購読者が増えてくる。しかし、洋紙はまだ国産ではなく、香港を経由して入ってきたアメリカ製であった。
 日本の製紙を企業化しようと考えたものには大阪の百武安兵衛という人物がいる。 
 百武は明治三(一八七〇)年十月、貨幣制度、銀行制度等の視察に渡米した伊藤博文の一行に民間実業家の代表として加わり、その途上、抄紙機を買い付けて帰国した。帰国後まもなく合資により洋式製紙業を企てたが、残念ながらその計画は機械が到着しないうちに百武の破産によって挫折する。百武は、明治五(一八七二)年に洋銀取引所設立願を出すなど銀行業務にまで手を拡げる明治起業家のひとりであるが、多少慌て者のところがあったようである。注文した抄紙機が、遅れにおくれて八年後の明治十一(一八七四)年一月に到着したのも、買い付けの時の契約のミスだったと伝えられる。ただ、百武の製紙業企業化の計画は、後藤象二朗らの経営する蓬莱社に引き継がれることになる。
 製紙業が起こったのは、大坂だけではない。東京では、明治五(一八七二)年、旧広島藩主浅野長勲が、イギリス人ウォートルスの援助によって有恒社を立ち上げて日本橋蛎殻町に工場を設け、明治七(一八七四)年六月に製紙業を開業する。
 また京都では、明治六(一八七三)年、京都府知事の槙村正直が皇室御下賜金の一部をもって京都の梅津にドイツ人レーマンの指導で工場の建設をはじめ、「パピール・ファブリク」という社名で、明治九(一八七六)年一月に操業を開始した。
 こうして時代が和紙から洋紙へ傾いて行くのは、明治二(一八六九)年、本木昌造によって始められた活字印刷の技術にも淵源がある。江戸時代の木版刷りであれば和紙の表面に浮き出る繊維の凹凸は問題なかったのであろうが、金属で鋳造された活字で印刷されるためには洋紙のような滑らかさがどうしても必要だった。
 時代はすでに洋紙を求めていた。「脱亜入欧」というスローガンは、文盲をなくして教育のレベルを上げるという教育令にも繋がっていく。
 明治十九(一八八六)年の小学校令の発布以来の識字率の向上は、続々と出版される書籍や雑誌、新聞の需要を飛躍的に伸ばし、文部省もついに明治三十六(一九〇三)年、国定教科書印刷に洋紙を使用することを決定することになる。
 明治の一大起業家、渋沢栄一は、恐らくいずれこうして時代が洋紙を求めるようになることを持ち前の勘の良さで感じ取っていたのであろう。欧州滞在で、ヨーロッパの新聞を日々手にし、情報の伝達に目を丸くした渋沢にとって、その新聞のもととなる製紙の起業は、未来への光とも映ったに違いない。
 しかし渋沢が抄紙機を買って工場を建てても、理想的な真っ白い洋紙をすぐに作ることはできなかった。紙を作るためには、廃品として回収したボロ布を使うしかなく、これではゴワゴワとしたコットン紙しかできなかったのだ。
 本格的に木を砕き、チップにしたパルプを利用して、わが国で洋紙が作られるようになるまでには大川平三郎という人物を待たなければならない。
 大川は渋沢の甥にあたる。彼は、当時大蔵省大蔵少輔事務取扱であった渋沢の書生となり、大学南校に進んで英語とドイツ語を学び、「抄紙会社」の設立とともにここの技術者として就職した。時に十六歳、家計を助けるために給料はすべて母親に渡したという。小柄で細い目をした大川は一心不乱で自分に与えられた仕事をこなしたのであろう。
 はじめ、「抄紙会社」にお雇い外国人として迎えられたドイツ人建設技師チースメンと抄紙技師ボットムリの二人にしたがってボロ布による製紙技術を学んだが、明治十二(一八七九)年、「さらに研究の必要あり」という抄紙技術に関する建白書を書いて認められアメリカに留学する。この時、渋沢は大川の留学に反対であったが、彼の英語力を買い、三井物産の益田孝(鈍翁)が破格の抜擢をしたという。
 ここで得た技術は、ボロ布に代わって藁を使って紙を作るという技術であった。しかし、帰って来てみれば、ヨーロッパでは新しく化学的に処理をした「木材パルプ」で紙を作る技術が発明されたという噂……明治十五(一八八四)年、彼は今度はヨーロッパへ渡る。
 東京都北区、渋沢栄一の旧邸、飛鳥山にある「紙の博物館」には、大川がヨーロッパで書き付けたノートが所蔵されている。それによれば、酸性の亜硫酸カルシウム溶液で細かく砕いた木材チップを高温処理して亜硫酸パルプを作りこれを機械で漉くとある。これによって藁やボロ切れを原料とした場合とは全く異なる表面がツルツルとした真っ白い良質の洋紙ができることになる。
 この大川のヨーロッパでの調査を経て、「抄紙会社」は、「王子製紙」と社名を改め、明治二十年代から次第に洋紙生産の先駆者として名を馳せるようになる。
 しかし、問題は資材である。
 当初の大川の計画では、秩父山地の木材を荒川に流し下流の隅田川から王子工場に送りそれで木材パルプを作る予定であったが、木材がうまく運ばれて来ない。彼は、木材が豊富で水車動力の使える所を探し天竜川の上流、気多村(現静岡県周智郡春野町)の土地を購入し、明治二三(一八八九)年日本で最初の亜硫酸法による木材パルプの製造に成功した
 しかし、明治四十(一九〇七)年、大川は三井銀行による王子製紙株の買い占めによって、創業者である渋沢ともども、三井の飛ぶ鳥を落とす勢いで企業買収を行っていた藤山雷太に追われてしまう。製紙に人生をかけた大川は、この後、上海にいたアメリカ人貿易商モースの協力を得てフランス系製紙会社の総監督に就任、以後四日市製紙、九州製紙、中央製紙、樺太工業の創業に携わることになる。
 この頃、王子製紙と並んで最も優勢な製紙会社は、銀行家村田一郎・河瀬秀治の両氏によって明治二十三年に富士市に創設された富士製紙であった。しかし、有力製紙企業とは言え、輸入パルプでは採算が合わず、新たに開拓が始まった北海道に進出する。
 その先鞭を切ったのは、明治三十三(一九〇〇)年、前田正名によって釧路に創設した前田製紙合資会社である。彼は翌年からパルプの製造を開始するが、後この工場は富士製紙によって同三十九(一九〇六)年に買収され、さらに富士は四十一年に江別にも工場を完成させる。
 王子製紙は四十三(一九一〇)年、苫小牧に木材パルプ製造設備を持つ工場を建て、当時アメリカでも最新最大といわれた一四二インチ抄紙機を据え運転を開始する。
 そして大正の初期には、北海道だけでは間に合わず、さらに大量生産のための資源を求めて南樺太に進出した。
 樺太には、三井系の三井紙料工場、大川平三郎の樺太工業、小池国三らの日本化学紙料などが相次いで設立され、ついにパルプの国内生産は輸入高を追い越し、大正三(一九一四)年の第一次世界大戦をきっかけに、洋紙の需要は、さらに伸びることになる。

王子製紙と高島氏
 高島菊次郎氏が生まれたのは、王子製紙の前身である「抄紙会社」ができた明治八(一八七五)年であった。現在の北九州市門司区、当時福岡県企救郡柄杓田という寒村である。
 代々、魚介問屋、乾物屋などを行っていたのが、次第に人を集め、祖父、父親の代に酒造・醤油醸造業へと生業を大きくしていった。長男であった彼は、両親から家督を継ぐことを強要された。しかし勉学の念捨てがたく、十八歳の時、門司の実家を夜中に抜け出し、父親に黙って長崎に潜伏して、北米メソジスト教会の宣教師C.S.ロングが創立した鎮西学館に入学する。一年後、手紙で父親の許しを得て上京し、東京商業高等学校(現、一橋大学)に入学、明治三十三(一九〇〇)年、二十六歳で本科を卒業するに際して、「商業歴史」と「商業用作文」を専門にした横井時冬教授から大阪商船株式会社に紹介される。
 最初の赴任先は、香港代理店。事務所は三井物産香港支店と共同であった。
 一年の香港支店勤務の後、氏は台湾の淡水出張所に転勤、英語と漢文には堪能だった高島が、ビジネスのみならず、後、昭和十八年から敗戦にいたるまで国策会社中支那新興株式会社の総裁として、中国の文人墨客と深く交わることができるような中国語を習得したのはこの頃であった。
 そして、この台湾で知り合ったのが、六十年にわたって王子製紙の経営に協力して携わった藤原銀次郎である。台湾、淡水の北投温泉でたまたま一緒の宿に泊まり、風呂のなかで藤原がこんこんと「何事にも予算」という話を高島氏に聞かせたのが両人のつきあいの始まりであったという。
 藤原は、長野県上水内郡安茂里村の出身で、高島氏より六歳の年長である。明治二十二(一八八九)年慶應義塾を卒業し、松江日報に就職、主筆兼社長に就任して明治二十八年まで経営にあたった。しかし、新聞用紙の調達がうまく行かずに松江日報は倒産し、同じ年、同郷の先輩である鈴木梅四郎の推薦で、三井銀行に入った。ついでに言っておくと、慶応大学の工学部は、昭和十九年、彼が資金を出して作ったものである。
 高島氏は、明治三十五(一九〇二)年大阪商船を退社、三井物産香港支店勤務を経て、翌年廈門出張所長、福州営業所長を兼務し、三年後に台南出張所長となる。明治三十九(一九〇三)年、内務省官吏・工学博士青木元五郎の長女光子と結婚、明治四十一年に長男喜久馬が生まれた。
 この明治三十九年前後は、後、高島氏が社長となる王子製紙にとって、大きな発展を遂げるための転換期であった。
 すでに、明治三十一(一八九八)年、王子製紙は、三井家から送られた藤山雷太によって株が買い占められ、創始者の渋沢栄一・大川平三郎は追放されてしまっていた。
 というのは、王子製紙の資金調達は三井銀行から行われていたが、天竜川沿岸にあった気田・中部の二工場はザラ紙程度の紙質のものしか作れない程度のものに加えて、毎年雨季になると川の水が氾濫して操業不能になるなど、王子工場を除けばほとんど資金の回収ができない状態であったからである。
 林と川は、製紙業には不可欠の要素である。木材はパルプにつながり、川は水力として機械を動かすための電力を供給する。
 藤原雷太が一年で王子製紙を辞めると、次に代表取締役に就任したのは、藤原銀四郎の先輩である鈴木梅四郎であった。
 鈴木は、王子製紙の経営悪化を解消するために、明治三十九年、北海道を視察し、支笏湖が工場用電力供給として利用できること、かつ周辺のエゾマツ、トドマツの原生林が製紙原料として最適のものであるとして、総工費四百万円強(現在百億円余り)を投下して苫小牧工場を建設に踏み切ったのである。
  当時、王子製紙で作られた洋紙は、神田駿河台に本社を構える博進社によって独占的に買い付けられていた。王子の工場から印刷・製本会社が多くある駿河台への紙の輸送の便利さがその主な理由である。
 博進社は、明治三十(一八九三)年に、明治後期に出版王国をきずいた博文館の大橋佐平が、姉の子、山本留次を社長として作った大手洋紙店である。明治末年までに図書二千三百種、雑誌三十種を出版する博文館は王子製紙の筆頭株主であって、その子会社博進社は、日本書籍、東京書籍、大阪書籍の三社が出版する小学校の国定教科書出版のための用紙すべてを納入していたのである。
  そして、明治四十三(一九一〇)年八月に苫小牧で百四十二インチ抄紙機二台が運転を始めると、ここで製造された紙は、毎日新聞に供給されることとなる。
 紙は作ればいくらでも売れる……そういう時代であった。高島氏は、後年、藤原銀四郎を評して言う。「藤原さんは本当の商人でした」、「技術も金で買えば済むという考えだった」と。
 その藤原が、高島をヘッドハンティングして王子製紙に入社させたのは、明治四十五(一九一二)年五月であった。高島の真面目さと人をなだめてうまくことを運ぶ懐の深さを買っていたからである。「人をよく働かせようと思ったらまず自分自身が先に立って一生懸命に働かなければならない」という父の戒めを守って、高島は中国人や台湾人などをうまく使ったという。
 藤原は、鈴木の後を継いで苫小牧工場を経たのち、専務となっていた。その苫小牧工場を任されたのが、高島である。
 氏は、ここでまず約千六百人の従業員のために社宅の改良を行った。工場で使用されるボイラーの熱を利用して二十四時間、各家庭でいつでも熱湯が出るようにしたり、また楽しみのない僻地に娯楽場を作り、そこへ北海道興行に来る歌舞伎役者などを呼ぶ。また、給料も従業員全体に適材適所を図って無駄を省かせ、多く紙を作る努力をしたものたちに懸賞金を出し、さらに職人には技術を磨かせるために海外への留学もさせる制度を作っている。
 こうしたことが、苫小牧工場での生産率を飛躍的に伸ばし、それが評価されて、高島は大正三年には取締役、翌年には常務に就任した。
 そして、初代樺太庁長官の平岡定太郎の便宜によって、王子製紙は樺太の泊居に工場を建設する。第一次世界大戦によって、洋紙輸入が杜絶したこの時期、この泊居工場はフル回転で、軍事物資としての召集令状、また新聞のための紙の供給を行ったと言われている。
 また、大正の初年、氏は樺太を中心にして植林を行うための基礎を作っている。
「スエーデンなどでは、伐った後に必ず植林するが、その費用は材木の払い下げ代金からすべて天引きすると聞いていますが、日本ではそういかないのでしょうか」
 東伏見宮大妃殿下が樺太見学に訪れ王子製紙の知取工場のクラブに滞在された際、山火事が起こり一週間ほど足止めをされた。お帰りのとき、山火事の消防へと下賜された相当の金額を、植林に充てる基金として樺太庁に依頼したのである。
 その後、王子製紙は、大正五(一九一六)年内閣印刷局抄紙部の十条分室を譲り受けて十条工場とし、同十年大日本雄弁会講談社(現在の講談社)の野間清治との契約を得て先ず、『大正大震災大火災』という雑誌のために紙を供給する。菊判三百八十ページ、定価一円五十銭で初版三十万部、重版が二度行われて計四十万部。この時に得た資金で、講談社は同十四(一九二五)年正月から雑誌『キング』を出版した。創刊号は追加注文が相次ぎ合計七十四万部、翌年の新年号は百五十万部に上り、ついに日本一の雑誌となる。これら講談社の雑誌はすべて王子製紙で作られたものであった。
 高島は、この後、昭和四(一九二九)年に専務取締役に就任、社長穴水要七の死によって富士製紙の株は王子製紙に売却され、ともに大川平三郎の樺太工業をも傘下におさめて三社合弁を成功させ、これまでの「王子製紙」をコンツェルンとしての「大王子製紙株式会社」へと発展させる。
 同時に製紙連合会理事長、日満パルプ、山陽パルプの各社を創立して社長に就任、また、昭和十四年には日本パルプ工業会社を経て、昭和十八(一九四三)年国策会社である中支那振興株式会社の総裁となり、上海に赴任した。高島を総裁に推したのは、東条内閣で外相を勤める重光葵であった。
  高島は、南京にあって国民党政府を作った汪兆銘と親しく、公館にはチョ民誼、周仏海、梅思平、林柏生などの南京政府要人や中国文化界の著名な書家、画家、彫刻家が多く出入りしていたという。そして暇があれば、事細かに妻に手紙やハガキを出している。
 ちょうど、高島氏が南京に滞在中のことであった。
 長男の喜久馬が、召集令状を受けて、南京を通過した。
 南京には、急性肺炎に罹った高島を偶々妻の光子が東京から見舞いに訪れていた。首都飯店で三人で食事を取り、記念撮影をした写真が残っている。どこかうつろに左側に目を向ける息子と、他の写真にも多く見られるように右側に少し首を傾げて遠くを見るような目の高島氏……
 これが喜久馬との別れとなる。
 喜久馬は戦争終結の目前、江西省遂川県黄塘付近で匪賊討伐中に戦死したのである。
 戦後、大王子製紙はアメリカ当局の要請により解体した。七十歳を過ぎた氏は、会社経営から身を引いて、読書、書道などに没頭された。昭和三十八(一九六三)年勲二等瑞宝章を受章し、昭和四十四(一九六九)年一月二十九日永眠。九十五歳の長寿を全うされた。

幻の老子道徳経
 高島氏の没後まもなく、氏の秘書であった桜井文弥氏は『槐安居春秋』(求龍堂)をまとめられた。門司の生家から大阪商船を経て亡くなるまでの写真を収めて、各界の有力者や交際のあった人々のコメントを載せ、巻末には年譜がつけられる。
 この中に先に述べた出光美術館顧問・大東文化大学外国学部教授の杉村勇三博士の手紙がある。
 それによれば、博士が高島氏に初めて会ったのは昭和二十二年の秋であった。麹町の旧邸が空襲で焼かれた後、高島氏は藤沢市の鵠沼に住んでいた。幸い、夫人の計らいで氏が収集した中国の書画は大垣市、岐阜赤坂の旧本陣矢橋家に疎開されて焼失を免れた。その虫干しをするというので、杉村博士は呼ばれたという。
 以後、二人の交際は長く続き、昭和四十二年、高島氏は死の二年前に杉村博士を通じて、貴重な中国書画のコレクション約四百点を東京国立博物館に寄贈されることになる。
 博士は、高島氏の書画を見に行くという目的とは別に「真の日本の人物らしいその豊かな風貌に接」する楽しみがあったと記す。
 二十代から香港、台湾、大連などに勤務し、終戦までの二年間は特に中支那振興株式会社の総裁として自由に文人墨客と交際をされたという高島氏は、唐詩などの詩集をよく読み、有名な漢詩や漢文はほとんど暗記していた。年譜によれば、漢詩・漢文を本格的に読まれたのは、大正の末年頃であったらしく、大正十四年、五十一歳の時に「老子、荘子を中心として大いに漢籍を研究」とある。
 現在大東文化大学図書館に所蔵される高島氏旧蔵書の漢籍を見ると、そのほとんどに細字で詳しい注が書き込まれ、氏の読書の深さが彷彿とする。かつて、氏は評論家で水戸学の研究家として知られる高須芳次郎と老荘についての議論をして、高須を驚愕させたこともあったという。漢学は、高島氏にとって深い教養として実学の基礎にあったのであろう。
 そして、氏の旧蔵書の中に、非常に貴重な『老子』が一冊存している。
 それは、天正六(一五七八)年の写本で、もと、足利学校に所蔵されていた一冊である。
 足利学校とは、平安時代初期、あるいは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関で、室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。
  永享四(一四三二)年、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し、鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(学校長)に招き、自ら蔵書を寄贈した。結果、北は奥羽、南は琉球の全国から学生が集まったという。享禄年間(一五三〇年頃)火災で一時的に衰微したが、第七代庠主、九華が後北条氏の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は三千人にも上ったと記録される。
 この足利学校にはどのような書物があったのか。それらはどのようにして集められ、そして散逸してしまったのかということが、これまで日本文化史上の大きな課題として研究されてきた。
 特に昭和十年から戦後にかけて、書誌学者長澤規矩也、川瀬一馬両博士が、幕末に著された貴重書の目録『経籍訪古志』等を使って足利学校所蔵本の現存書調査を行っている。それによれば、高島氏旧蔵の『老子』は、「足利学校から出て、福山藩校問津館に帰し、幕末の医師小島宝素、森立之を経て、大槻文彦に伝存したが現存未詳」とされたものなのである。
 しかも、本書は足利学校第七代庠主、九華の弟子真瑞によって書かれたもので、中国では古く滅びてしまった『老子述義』という書物からの引用があり、鎌倉時代に北条氏が創建した金沢文庫の学問から直接影響を受けた形跡を残している。
 本書は、こうしたわが国に於ける『老子』の受容と、足利学校創建の際の文献の動きを知るための、幻のごとき一冊なのである。
  これが貴重な書物であることを、高島氏は知っておられたのであろう、この本には「高島氏蔵」という蔵書印が捺される以外に、他の本に見えるような書き込みが一切ない。
 足利学校には、今、大正十一年に中国山東省曲阜にある孔子廟から持ってこられた種から育てられた槐樹が大きく茂っている。
 紙が作られる以前から、人は木簡など木材を利用して文字を記し、文化を継承して来た。洋紙が機械製造される今日でも、その原料は木材である。
 高島氏は自ら槐安と号し、それは「木の霊魂を安んじさせるという意味だ」と言う。もちろん、そうした意味もあったであろう。そして戦後、会社経営から身を引かれた後、ひたすら読書と書道に没頭されたのは、年齢のせいでもあったに違いない。
 しかし、もしかしたら、自らが人生を賭けて作りだしてきた洋紙が、戦争とは不可分の物資として存在することに心を痛められたのではなかったか。……戦争とは言え、たった一枚の赤紙が、長男喜久馬を含め、多くの命を奪ったのである。
 昭和二十二年、二月十九日、喜久馬の遺骨を神奈川県藤沢市にある時宗総本山遊行寺に葬った時の俳句が残っている。
 新仏の墓木や白し冬木立
 素人肌を抜いた俳人としての高島氏が、この俳句に「木」という漢字を二度も使わなければならなかったのは、なぜだったのであろうか。
 氏の俳号は、「盲鬼」であった。「鬼」が「木の霊魂」を意味するとすれば、「盲」とは「目をつぶってそれを沈思する」ことであったのだろう。
 木は紙となって書物を作る。その書物は国を豊かにもするだろう、しかし同時に、ともすれば人を殺すことにも繋がるのだ……高島氏は、語録『思い出すまま』(昭和四十二年、求龍堂)で、老子の「小国寡民」を引き「大国では治まらないので、小さな国で、すくない人民で、その土地に定着して楽な生活を送るという理想」と述べる。
 新しい洋紙への時代を作り、実業家として製紙王と呼ばれるまでに成功を収めた氏の心底には、言葉にはならない理想と現実の矛盾が去来したのではなかっただろうか。
 そして、氏が集めた中国の書画は、「実業家の多くが茶趣味に耽り、名器の観賞にうつつを抜かしているのに反駁する気持ちであった」(『思い出すまま』)というが、これとて、自らの行う製紙業が破壊する自然と、自然を魂の遊ぶところとした東洋の理想との矛盾を忘れぬための試金石ではなかったのだろうか。
 中国の古典の世界が、楽しみであってそしてそれがすなわち教養であり、実業の世界にそれを見えない形でしっかりと生かした人があった。それは、我々からさほど遠い昔のことではなかったのだ。