HOME | ESSAIS 004

更新日 2017-01-31 | 作成日 2016-12-27

「能」はなぜ狂うのか

 
新潮45
 
 
 
 「芸」のためなら(見出し)
      ♪芸のためなら女房も泣かす、それがどうした文句があるか……
 一九八六年にリリースされた都はるみ、岡八郎のデュエット、『浪花恋時雨』。
この歌は大阪生まれの落語家、桂春団治(一八七八〜一九三四)の破天荒な人生をテーマに作られたものである。「芸のためなら……」なんでもする!という彼の生き方は、当時から人の話題となり、彼の独創的な話術と相俟って上方落語界の全盛期をもたらした。
 しかし、この時期、芸術至上主義の狂気の中に生きた人間は、彼だけではない。小説家としては芥川龍之介(一八九二〜一九二七)、日本画壇では富岡鉄斎(一八三七〜一九二四)など我が国でもあらゆる分野にこうした「狂人」があったし、一九二〇年代、ヨーロッパでも「アネフォル(Annees folles)」(狂喜の時代)と呼ばれたことがあったことはよく知られている。
 ところで、能を観に行くと、我が子と生き別れや恋人との別れで、女性が狂ってしまうという話を主題にしたものがよく演じられる。いわゆる四番目と呼ばれるものであるが、これらは、十四世紀から十五世紀に生きた、観阿弥、世阿弥という能の大成者によって作られたものである。ヨーロッパでもルネサンス以前には魔女などが横行した「狂気の時代」があったとされるが、我が国にもまさに能に描かれるような「狂気」の存在があったのだ。 「メディアヴァルmedieval」(中間の時代)と呼ばれたり、あるいは「マトリックスmatrix」(母胎の時代)と呼ばれたりする「中世」……彼らにとって「狂う」とはいったい何だったのだろうか。
 
 
 
  「芸」の「道」とはなにか(見出し)
 
 さて、能の演題は、伝統的に五つのカテゴリーに分類される。
初番目(神) 神が主役(シテ)となる。「老松(おいまつ)」「白楽天」「高砂」など。 
二番目(男) 武人がシテとなる。あるいは修羅物。「田村」「八島」「箙(えびら)」「通盛(みちもり)」など。
三番目(女) 美人がシテとなる。鬘物とも。「井筒」「野宮(ののみや)」「松風」「姨捨」など。 
四番目(狂) 狂女がシテとなる。狂女物とも言う。「百万」「隅田川」「通小町(かよいこまち)」「善知鳥」「邯鄲」など。
五番目(鬼) 鬼、天狗といった荒々しく威力のあるものがシテとなる。または切能。「鞍馬天狗」「紅葉狩」「野守(のもり)」「春日龍神」など。 
 こうした能の演目の中でも中心的な存在を得ているものが「四番目」あるいは「狂い物」と呼ばれるものである。これらは、女性が狂ってしまうというものを主題にしたもので世阿弥の『花伝書』に、「物狂いの品々多ければこの一道に得たらん達者は十方へわたるべし(物狂いの芸をよく修めたひとは、他のどんなものを演じても大丈夫)」と記されるように、才能と研鑽を要するものと記されている。
 たとえば一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親が悲嘆にくれて狂ってしまう「隅田川」という作品など、人が好んで観るものだし、それだけに能楽師にも表面的な演技ではなく深い人間の悲哀を封じ込む修練が求められるものであろう。
 では、「狂い物」はどのようにして作られたのだろうか。能(当時は「猿楽」と呼ばれた)が創生された中世社会に何が起こったのか……これを考える前に、少し能と平行して、他の芸術、たとえば「和歌」や「書」に起こった大きな変化について触れてみよう。
  万葉の時代を経て平安時代に確立した和歌の伝統は鎌倉中期に起こる保元の乱(一一五六)、平治の乱(一一五九)を経、後鳥羽上皇の崩御によってひとつの幕が閉じられる。
 もちろん和歌がこれによってなくなったということではないけど、この頃から次第に連歌が多く作られるようになっていくことは和歌の分岐点とも考えることができるであろう。連歌はひとりで作られるのではなく、複数の人が集まって作られる一種の遊戯である。これらの連歌の会が「天神講」と呼ばれるものであったことは、天皇家を中心に据えて行われてきた和歌という芸術がひとつの区切りを告げたものとみるひとつの現象であろうと考えられる。「天皇」をすげ替える形で「天神」というもっと呪術的な権威をもったものに供養を捧げることに連歌の意義を置いたのである。
 
 少し時代は下るけれども、『閑吟集』(一五一八)に
 
     「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
 
 という歌が載せられていることなどは、中世の日本人の精神史を紐解くための重要な鍵であろうと思われるのである。
 
  伝統からの脱却という点については「書」にも同じようなことが言える。
 
書は、伝統的に「仮名」と「漢字」とに分けられる。平安中期の三筆を見てもわかるように、藤原佐理、藤原行成 は仮名の能筆、これに対して小野道風は漢字を専門にしていた。仮名は和歌を書くための優雅さが求められるし、漢字は漢文で書かれていた公文書のためのものとして厳格さが骨格となっている。
 
 ところが、後に御家流と呼ばれるようになる書が尊円親王(一二九八〜一三五六)によって確立される。尊円親王は、仮名と漢字という区別をなくし、初心者にも簡単で早く綺麗に見える書き方ができる筆の使い方を生み出すのだ。
 
 こうした筆の使い方で、子供に教えるための「手紙の書き方」(『庭訓往来』)や漢詩詩集(長恨歌、琵琶行)、また『和漢朗詠集』など江戸時代にいたっても書道の手本となる作品を作り出す。一条兼良(一四〇二〜一四八一)の『尺素往来』には「彼の書は京都だけでなく、田舎にまで慎到している」と言われるまでに社会に浸透する。これはまさに中世において起こったそれまでの日本の伝統芸術を覆す動きであったと見ることが出来るであろう。
 
 さて、それでは演劇などの分野においてはどのような変化が起こったのであろうか。
 
 観阿弥(一三三三〜一三八四)、世阿弥(一三六三〜一四四三)親子より以前のことははっきりと分かってはいないが、伎楽、田楽、延年、白拍子と呼ばれるようなものを彼らは取り集めながら現在見られるような猿楽の様式にしたと言われている。田楽とは、田植えの前に豊作を祈る「田遊び」から発達したものであり、また延年とは、寺院の法会の後に僧侶や稚児が延年は長寿を祈念する意味合いを込めて行った演劇である。また白拍子は白い水干に立烏帽子、白鞘巻をつけるという装で歌や舞を披露した。 特に遊女が男装し、男舞に長けた者を白拍子とも言うようになったと伝えられている。
 
 観阿弥、世阿弥までの時期には、おそらくこうしたものを随時取り入れながら能への昇華が行われていたに違いない。特に観阿弥が足利義満の庇護を受けたことは、能が芸術性を高める重要な契機となった。これについてはすでにこれまでの先学の研究に指摘があるところである。
 
 ただ、いまだに彼ら親子の出自については明らかになる資料の発見がなされていないが、興味深いことのひとつに「阿弥」という称号を持つ人間に、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱える宗教、一遍上人を開祖とする「時宗」の者が多かったということである。時宗とは念仏を唱えることで阿弥陀への信・不信は問わず往生できると説き、「現在」「現時点」に生きることを目的として、念仏踊りをする浄土宗の一派である。
 
 これは上に上げた「一期は夢よ ただ狂へ」と共通する意識であったとも考えられる。
 
 いずれにせよ、中世という時代がそれまでの伝統を壊しながら、他の要素を取り入れつつ変貌を遂げたことはこうした芸術の動きを見ても明らかであろう。そして、この頃から日本の芸術は「和歌」が「歌道」へ、「書」が「書道」へ、演劇のような芸が「芸道」へというように漢字の「道」をつけて呼ばれるようになっていく。
 
 この道とはそれでは何を意味するのであろうか。
 
 容易に推測がつく一つの理由はこれが伝統的に伝えられてきた「道」という意味である。
 
また、芸術を個人的な問題として取り上げるならばおそらく自分を磨くため、教養を身につけるための手段としての「道」、あるいは宗教的な意味あいが背後にあったとしたら、こうしたことを行うことによって救済を求めるという意味で「道」という言葉をつけたとも考えられるであろう。
 
 しかし、ひとつ強調しておきたいのは、上に見たように芸が他の要素を取り込みながらその幅を広げていったことによって、そこに集まる共同体が形成されたということである。中世史の研究家はこれを「座」と呼ぶが、天神講、あるいは仮名と漢字の融合、また延年、白拍子、田楽といったものを融合することによって、小さな集団はより大きな力としての結成力と結集力を勝ち得たのである。この結集力、社会のあらゆる層の人間たちが「芸」を介して集まり、そこで新しいネットワークを組み立てることこそが、「道」の意味ではなかったかとボクは考えるのである。こうしたことは現代の日本の伝統的芸術集団を見ても同じようなことが行われていることから推測できることである。
 
 
 
「時間」不在の中世(見出し)
 
 それではどうしてこうした芸術の動きが中世に起こったのであろうか。
 
 もちろん、これを解明するためには社会学、歴史学、あるいは経済史、政治史などからの広範な視野に立ったアプローチが必要であろう。日本の中世という時代は、飢饉と内乱にあえぎ、また宗教的救済を求めて日蓮宗、浄土宗、禅など民衆を引き込む動きがあったとすれば、こうした面からの研究も不可分の領域であるに違いない。そして、能に関することから言えば、幾つかの心理学的方法による解釈も行われている。
 
 三島由紀夫によって戯曲化されたことでも有名な『卒塔婆小町』のオリジナルは、観阿弥によって作られ世阿弥が改作したものとされている。乞食となって阿倍野辺りを彷徨う老女が卒塔婆に腰をかけていることを僧侶がたしなめるというところから始まるこの能。この老婆は、実は小野小町のなれの果て。美しかった昔を偲び、現在の老醜を嘆くうちに百日通いの九十九日目に死んでしまった深草の少将の霊が取り憑いて狂乱するという話である。
 
 日本中世思想史の細川涼一氏によれば、こうした憑き物による物狂いは、精神分裂症患者に見られるような自己の基盤の喪失と自己を自明性から振り落としてしまうものとしての他者が同時に出現していると解釈されている。
 
 また九州芦屋の女性が都からの夫の帰りを待ちわびて狂い死に亡霊となってしまう『砧』については、能楽研究家の戸井田道三氏、比較文化学者の金関猛氏によって、精神分裂症の患者と共通する時間に対する感覚の麻痺が強調されている。
 
  こうした自己の基盤の喪失、時間の感覚の麻痺ということは、歴史の認識や歴史書の記述の変化とも共通しているように思われる。
 
 我が国では、七二〇年に編纂された『日本書紀』から九〇一年に編纂される『日本三代実録』まで律令国家体制下で六つの歴史書が書かれている。しかしこれらは、歴史書とは言いながらも記述の中心は、天皇家の正統性と継承の歴史でしかない。いずれも、いわゆる中国の『漢書』や『後漢書』など「正史」と呼ばれるスタイルを模倣したものであった。
 
 ところが、十一世紀極前半、宋の司馬光によって作られた『資治通鑑』という歴史書の影響によって、こうした皇位継承を中心に据えた歴史観とは別に、歴史は時間の流れであるという認識へと変化する。これは「過去の歴史」を「鑑(かがみ)」として、現在やあるいは未来を作って行こうという考えを作り出す。
 
 そして、十三世紀後半には、中国、元で『十八史略』という本が作られた。これは私塾で使われた中国の歴史を学ぶための教科書なのだが、簡単に時間の流れを示しつつ歴史的な事実をヒーローの働きによって読み解くという性質を持ったものである。これは中国の歴史の入門書として日本にもすでに十四世紀の初頭には禅僧によって中国からもたらされた。『十八史略』は禅の思想と相俟ってひとりひとりの人間が「歴史」を作る可能性をもったものとする思想を示し、また「歴史」を「物語」としてとらえる視点をも吹き込んで行く。中国の歴史書の影響を受けて、「歴史」の認識が基盤を喪失し、再編成されなければならない時代に、能は作られているのである。
 
 ところで、中世、日本には「時間」が存在しなかったというと驚かれるだろうか。
 
 『砧』の中には、次のような句が記されている。
 
 宮漏高く立って風北に廻り、隣砧緩く急にして月西に流る
 
 ここで謡われる「宮漏」とは宮中に置かれていた水時計を指す。日本古代の律令制によれば中央官制のなかの陰陽寮に二人の漏刻博士がおかれ、守辰丁と呼ばれる時守を率いて漏刻を管理し、鐘をついて時を知らせたという。農業国である我が国では、和歌が季節を詠うように時を司ることは天皇のもっとも重要な仕事の一つだった。ところが、南北朝という天皇家の皇位を巡る内乱によって、この水時計は完全に破壊され時間は各地方の自己管理に任されてしまうのである。
 
 
 
  狂うエネルギー(見出し)
 
 こうした時間の不在、時間に対する認識の動揺は、比較的分かり易い脇能にさえ現れている。例えば「養老」は、美濃の国の養老の滝の付近に薬の水が湧き出たという『続日本紀』にも見える説話を題材にし、この水を帝に捧げると養老の神が現れて平和な御代を祝福するという世阿弥の作品である。主人公は養老の薬水を飲んで元気になったお爺さん。彼の息子が柴刈りに行った時に見つけた水が仙薬だと帝が聞き及び、勅使がこれを確かめに来たのを、二人が案内して説明をする……しかし、話は簡単なのに、舞台を観ていると誰がいつのことを言っているのかよく分からない。そして最後に養老の山神が現れるのだけど、それを演じるのは主人公のお爺さん。なんでこのお爺さんは、わざわざ息子が養老の水を見つけた話を勅使にしなくてはいけないの?と、ボクはいつも考える。
 
 「白楽天」だってそうである。『古今和歌集』の仮名序に強い影響を受けているとされるが、唐の大詩人白楽天が、日本の知恵をはかろうとして筑紫の浜にやってくる。そこで漁翁と歌問答をして日本はすごいなぁ……と感心していると伊勢、石清水、八大龍王が海と空から現れて、白楽天を神風で吹き返す。この中で、漁翁は「鶯や蛙まで日本では生きているものは皆歌を詠む」などという挿話をするのだが、いくら神様の出てくる目出度い能だとは言え、これっていつの話なの?と思わざるを得ないし、こんな荒唐無稽な話を作る必要がどこにあったのかと首を傾げたくなってしまう。……これがそして四番目の狂い物になると、話が複雑なだけにもっとオドロオドロしく時間を喪失してしまう。
 
 「砧」は、九州芦屋の男が訴訟のために妻を残して京都に行くが、三年を都で過ごしても帰らないというところからはじまる。男は侍女の夕霧を芦屋の里に帰し、年の暮れには自分も国に帰ると伝えさせる。妻は都にとどまる夫をなじる。やがてそこにふと里人の打つ砧の音を耳にした妻は中国の故事を思い出す。蘇武が西域の国に抑留されていたとき、妻が身を案じ、砧を打つことでその思いを夫に伝えたという話である。
 
 妻は、夕霧とともに砧を打ち始める。そして彼女の中には次第に狂いの様相が浮かび上がってくる。現実の時間とは異なった思い出の時間が作られるのだ。
 
 地謡 かの七夕の契りには、一夜ばかりの狩衣、天の川波立ち隔てて逢瀬かひなき浮船の、梶の葉もろき露涙、二つの袖やしをるらん、水陰草ならば、波打ち寄せようたかた。 (あの七夕の契りには、二つの星が年に一度のかりそめの出逢い、天の川の波が立ち隔てて逢うこともできない辛い逢瀬、もろくも落ちる梶の葉の露のような涙によって二つの星の袖は萎れてしまう。天の川原に生える水陰草よ、「水掛け」という名前があるのであれば、泡とともに波うち寄せて、二つの星を逢わせておくれ)
 
  シテ 文月七日の暁や(それは七月七日の暁のこと)
 
  地謡 八月九月、げに正に長き夜、千声万声の、憂きを人に知らせばや。月の色風の気色、影に置く霜までも、心凄き折節に、砧の音夜嵐、悲しみの声虫の音、交じりて落つる露涙、ほろほろはらはらと、いづれ砧の音やらん。
 
 (八月九月ともなれば、まことに秋の夜長、その長い夜に打つ千度万度の砧の音で、わたしの辛い思いをあの人に知らせたい。月の色、風の気配、月の光に映える霜までもぞっとするほど心寂しい折り、砧の音、夜嵐の音、悲しみのあまり忍び泣く声、虫の音、入り交じって露も涙も乱れ落ち、ホロホロ、ハラハラ、いったいどれが砧を打つ音なのか)
 
 彼女がどれくらい砧をうち続けたのかは、分からない。台本にはどこにもそうした時間の経過は示されない。数時間?数日?数週間?もしかしたら数ヶ月……そこへ突然、何の前触れもなく、誰が届けたとの説明もなく、「夫はこの年の暮れにも帰らない」という便りがもたらされるのだ。
 
 シテ 恨めしや。せめては年の暮をこそ、偽りながら待ちつるに、さてははやまことに変りはて給ふぞや
 
 (恨めしや、せめてこの年の暮れこそはと偽りであろうとは思いつつ、もしやと思って待っていたのに……。夫はもうわたしのことが好きでなくなったに違いない)
 
 地謡 思はじと、思ふ心も弱るかな
 
 (そのようなことは思うまいと、じっと堪え忍んできたわたしの心ももう限界に来て、すっかり弱り果ててしまったわ)
 
 そして、狂って、消え入るように死んでいく女の霊を追うように笛の音が響き始める。これが『砧』の中入りまでの話である。
 
 ところで、この「年の暮れ」あるいは「七夕」という時間の指標は一見、時間の動きを説明するもののように思われる。しかし『砧』を観てみると、こうした時間が伝えられることによって、かえって妻が砧を叩く時間、昔の思い出、そしてこの後に亡霊となる将来の時間をさえも暗示しているような時間の交差が共時的に演出されるのだ。
 
 もし、能に弦楽器が使われていたとしたらどうだろう。たとえば四弦、あるいは五弦の琵琶。砧のこうした場面は弦楽器を入れたとしたら全く異なった世界を演出することになっただろう。弦楽器は長調と短調というような色彩をつけ、淡い思い出、夫への恨みなどの感情の動きや時間の変遷を刻みつける役割を果たしたに違いない。十六世紀末、琉球から大阪に入った三線(三味線)が、歌舞伎に用いられまた小唄や長唄を生み出して行った効果を考えれば、決してそれは困難なことではないだろう。
 
 しかし、能には決して弦楽器は使われない。舞台を開く「幕」もなく、笛の音が風のように不安定に舞台と客席を通り過ぎる。太鼓は、時間をある程度リズムのように招いてくれる。また鼓は主人公のの心臓の鼓動を示すように、感情と心の動きを示してくれる。……しかし、そこには「時間」がない。すべてが混沌として同時に進行し、解釈は観客に任される。そしてそれはオペラなど整然としたものとは性質をまったく異にする狂いを誘発する。この「狂気」は、精神分裂病などと言われるたぐいの次元にはない。「狂気」は時間と空間を超越して別の次元にある可能性を指し示すのである。これに似た「狂気」がヨーロッパのルネッサンス期まで残っていたとミッシェル・フーコーは言う。しかし、こうした狂気は、悲愴感という衣をまとうことによって十七世紀デカルト以降に完全に消えてしまうと。
 
  中世はマトリックス(母胎)の時代と呼ばれた。あらゆる階層の人々を巻き込み様々な伝統を吸収し混沌となった「狂気」は、巨大なエネルギーとなって新しい時代を創っていく母胎を形成する。体制側からすれば、これより危険なものはないだろう。江戸時代になって能を習うことが武家だけに限られたというのも理由のないことではあるまい。
 
 能を幽玄、あるいは日本の美と見ることが間違っているとは言わない。しかし、実はそうした衣をまとった中世の「狂気」が、能の中にはまだ滾々と流れているのである。