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本屋、吉川半七

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山口謠司

「売り家と唐様で書く三代目」ということわざがある。
創業者は人並みはずれた情熱と努力で事業を成功させ、財を成す。二代目はそのような父親の背中を見ながら成長し、築いた財産を保持しようとする。三代目は教育こそは受けるが、後先も考えずに私財を使い果たし、挙句の果てに洒落た唐様の文字で「売り家」と書くにいたる。すなわち、家業は、三代で潰れるということを言ったことわざである。
さて、江戸時代から今に続く書店、版元と言えば、創業享保十三(一七二八)年とされる文淵堂浅倉屋などが残っているが、浅倉屋は現在十二代目、明治三十九(一九〇六)年に出版された『吉田文積翁伝』を最後に、版元から古書貴重書の販売へと方針を転じた。
また、名古屋にあった永楽屋は、安永四(一七七五)年に創業し、本居宣長の著述の出版に携わって、江戸や大阪にも支店を出す程、明治時代初期まで繁昌したが、六代目の昭和二十六(一九五一)年のときに書肆を廃業した。
おなじように江戸時代に創業した版元のなかで、現在第六代目、前田求恭氏が営んでいる吉川弘文館という書店は、一五〇余年の歴史をもって盛んに本を出版し続けている。
その中でも歴史の分野、特に日本史に造詣が深いひとで、この出版社を知らないひとはまずいないだろう。図書館に行けば、吉川弘文館発行の『国史大事典』、『国史大系』伝記シリーズとしての『人物叢書』等々、教育、研究にあたっての不可欠の書籍が並んでいる。
ところで、吉川弘文館という書店の創業者が、この世界に初めて身を置いたのは、馬琴の『里見八犬伝』等を出版した若林屋清兵衛の許【もと】であった。そして文久三(一八六三)年、四谷にあった近江屋嘉兵衛の二代目として養子に入り、近江屋半七と名乗って店を構えた。故あってこの四谷の店を閉め、安政五(一八五八)年、日本橋松島町に店を出した。その後、小池貞兼著『三教眼目答書』を出版し、江戸で作られた本を京阪に運んで財を成し、明治三(一八七〇)年に南伝馬町(現在の京橋)に移った。
明治維新の荒波を受け、本屋も従来のままの体勢を維持することが容易ではなくなった。明治二年十一月に出された「書物問屋名簿」を、明治三十年のものと比べると、江戸時代から続く書店八十軒のうち、残っているものはわずか二十軒足らずである。そして新興の書店も、意気揚々と現れては泡のようにはかなく消えた。
そんな厳しい状況の中で、半七はどのようにして生き残ったのであろうか。
半七は、ようやく時代が落ち着いてきた明治六(一八七三)年頃から、自分が集めた古書を学者たちに随意閲覧させはじめた。文部省が、今の湯島聖堂に現在の国会図書館のもとになる書籍館を作った翌年のことである。
こうして学者が集まれば、おのずから彼等のなかには書物を著し、それを印刷して新しい思想や古典を江湖に広めようとするものも現れた。
また半七が出版した書物に、文部省から出されたものが多いのは、顧客に役人が多かったためである。近江屋半七は明治になると同時に「吉川半七」を名乗り、維新の波を越えた。半七は、学者たちとの深い絆を作ったのち「吉川弘文館」を出帆させると、それに心血を注いだ。そして、(一九〇二)年四月四日、六十四歳で亡くなった。
遺族は、百箇日の記念にと、新井白石の『東雅』を出版して知己に配り、また小祥忌には平安時代の辞書『伊呂波字類抄』を上梓した。
その当時、斬新な着想で新しい形の出版業を目指した吉川半七、「弘文館」という名前には、古いわが国の「文化を弘める」という半七の切なる願いが込められ、そのさらなる使命を子孫に託したのである。