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和泉屋市兵衛から山中市兵衛へ

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山口謠司

『英和いろは』という和装、半紙本、たった二十三丁の本がある。
 著者は岩崎茂実、明治七(一八七四)年十月に出版された。
明治七年と言えば、薩摩出身の森有礼が、福澤諭吉、加藤弘之、西周、中村正直など日本を西洋化しようと躍起になっている人たちが「明六雑誌」を出版した年である。
森有礼は、西洋化するためには、いっそ日本語を止めて、英語にしよう!ただ、その際、英語の不規則動詞を規則化して、英語を日本の国語にするというのはどうだろうと、イェール大学の言語学者ウィリアム・ホイットニーに手紙を送って意見を聞いたりする。
森有礼は、当時、外務大丞、すなわち今の外務大臣である。
これからは英語の時代!という雰囲気の中で出版されたのが本書だった。
 「いろは」順にならべられた濁点、半濁点を含む仮名を、大文字と小文字、ブロック体と筆記体のローマ字でどう書くかを学べるようになっている。英語の一番初級の入門書である。
 巻末には、数字、正月から十二月までの各月の名称、四季などをどのように英語で書くか読むかが記されている。
 ところで、今回、本書を取りあげたのは、この本を出版した版元のことを言うためである。
 本書の巻末には、「東京書林 甘泉堂 芝神明前 和泉屋市兵衛」として、三冊の出版広告が付けられている。表紙の裏「封面」と呼ばれる部分にも、「東京、甘泉堂」とあるので、本書の出版元は和泉屋市兵衛であったことは明らかである。
 さて、広告には、次の三冊が載せられている。
 英学童子通 後編近日出版 全一冊
 各国風土記 近日出板【ママ】二冊
 増補英語便覧 二冊
 広告には掲載されていないが、本書出版と同じ年に、和泉屋は、「訓蒙 英学記号書」という本も出版している。
 甘泉堂、和泉屋市兵衛は、現在の港区芝大門一丁目、芝神明宮(現・芝大神宮)のすぐそばにあった出版書肆である。江戸時代中頃、寛政(一七八九〜一八〇一)年頃から、歌川豊国と組んで浮世絵、草双紙、錦絵などを出し、江戸屈指の出版社に成長した。
 芝神明町というところは、東海道(現・国道一号線)からもすぐのところで、劇場や寄席などの娯楽、飲食店などがたくさんあるところだった。江戸時代はここで浮世絵を出版して売れば、必ず売れたのだ。
和泉屋市兵衛は八代にわたって、幕末までに国貞(三代豊国)や国芳などの浮世絵を出したりしていく。しかし、維新とともに世の流れは完全に変わってしまう。
 芝大神宮(現・港区芝)の店の前に立って、東海道を東へ、西へ、たくさんの外国人や新政府の役人たちが通って行くのを見て思ったに違いない。「新しい時代に適応しなければ潰れてしまう!」
「和泉屋市兵衛」は、まもなく「山中市兵衛」と名前を変え、英語の本のみならず、教科書をたくさん作っていく出版社へと変身したのだった。