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『盲目と洞察―現代批評の修辞学における試論』

  • 古刊

いとうしゅん

盲目と洞察―現代批評の修辞学における試論
(叢書・エクリチュールの冒険) 単行本 – 2012/9/1
ポール ド・マン (著), Paul De Man (原著), 宮崎 裕助 (翻訳), 木内 久美子 (翻訳)

単行本: 355ページ
出版社: 月曜社 (2012/9/1)
言語: 日本語
ISBN-10: 4901477986
ISBN-13: 978-4901477987
発売日: 2012/9/1
ISBN:978-4-901477-98-7

たとえば本を読むとき、その行為そのものについて、あるいはテクストの本質自体について懐疑的になることはあまりない。おそらく日常的な、一般的なレクチュール(読み、読むこと)において、その行為はただ単純な行為、プロセスとして何ということなしに働いているように思える。テクストは文字通りに受容され、解釈される。しかし、じつは「読み」やテクストの本質は、構造的に致命的な欠陥をかかえた、複雑でこんがらがったものであり、”伝達”としての文字テクストの役割からしてみれば、その未決生、不可能性の本質や構造はいささか悲劇的でグロテスクですらある。「読み」はどこまでも内在的でなければならならず、言語はつねに自らが意図した意味とはべつの意味を指し示さざるをえない。「読み」が不可避的に犯してしまう「言わんとする意味」と「実際に述べた言明」との齟齬は、レクチュールが内在的な行為である以上、それは「決して逃れることのできない責務」であり、それは哲学的問題としいやおうなく浮上してくるのだ。そしてそれは「読む」ことにおいてつねに向きあっていかなければならない重要な認識である。そして、目で目は見えぬように、洞察の裏にはかならず盲目がひそんでいるのである。

”批評家たちが自分自身の批評的前提にかんしてもっとも盲目になる瞬間はまた、批評家たちがみずからの最高の洞察を達成する瞬間でもあるのだ。”

テクストを読むこと(あるいは文学を理解すること、批評すること)――それは、”けっして外から観察しうることでもなければ、いかなる仕方であれ指定したり検証したりしうること”ではない。それは、必然的な内在性の責務の下に行われる、不回避的な誤謬の可能性を抱えた行為である。トドロフが解釈するように、レクチュール(読むこと)とはエクリチュール(書くこと)の一つの様態であり、読む行為によってテクスト自体が変化していくのである。そうして読解されたテクストは、もとのテクストに対して、なんらかの「齟齬」を不可避的に犯すことになる。すなわち、レクチュールとは本質的に「誤読」であり、書き手も読み手もともに「盲目性」に取り憑かれているということにほかならない。こうして本質的に「言明の盲目性」に捕らわれた批評家の言説は、”最高の洞察を達成する瞬間”に”もっとも盲目的になる”、というのである。

本著『盲目と洞察』は、ブランショ、プーレ、デリダなどの批評を俎上に載せ、そうしたテクストを読むこと、文学を理解すること、批評するといったレクチュールが”不可避的な内的齟齬への盲目性によって洞察そのものが支えられている”ことを暴く。

これらを理解するのに重要なのは、テクストの本質と「内在性」である。まず、この書(およびド・マンの思想における「誤読」の概念)における重要な前提となる考え方は、”テクストは誤読される必然性を有している”、ということである。テクストは本質においてアレゴリー様式(メタファーを慣用するスタイル)としてしか成立できないため、それはみずからが文字通りに受け取られることで「誤解」される可能性を持つ(されてしまう)。テクストが語るのはこうした「自らが誤解される物語、その誤解のアレゴリー」であり、これがテクストの本質であるとするのである。

次に、レクチュール(読むこと)の本質である<内在性(現象学的直観に基づく「虚構」を媒介にするということ)>である。先述したように、レクチュールとは必然的な内在性のもとにおける行為であり、「けっして逃れることのできない責務」である。つまり、レクチュールは「本質的に内在的な行為」であり、それは”批評的一言説における<言明の盲目性>と<意味の洞察>とあのあいだの構成的な齟齬”という体をなす。したがって、解釈とは誤謬(誤読)の可能性にほかならず、ゆえにそうした「齟齬」こそがレクチュールの本質なのだ。“解釈がテクストに、テクストが解釈に、絶対的に相互依存している”のである。

以上を踏まえると、批評とは、「文学テクストの「本質的な」意味を解明したり解釈したりするメタ言語であるどころか、それ自体文学にとっての一種の比喩形象として、あらかじめテクストに組み込まれていた言語の働きの1部」であり、また、「ひとつの完結した解釈を達成するどころか、ふたたび解釈を呼び求める、さまざまな比喩形象のひとつ」であるということにすぎないのである。

デリダの脱構築を応用した「脱構築批評」は、言語やテクストに内在する本質的な齟齬を暴き出し、意味を一義的に決定することの根源的な不可能性を明らかにしようとするものである。この書は従来の批評のパースペクティブ(見方)にコペルニクス的転回をもたらす、刺激的な一冊である。

構造的な不可能性を抱える「読み」、そして、いかなる認識論的一貫性も有さない解釈の意味論は、レクチュールやエクリチュールの実践において悲観的になりうることだろうか。テクストはつねにべつの意味を孕み、テクスト内在性を通して絶えなく生まれ変わりつづけ、そうして得られた意味や解釈は、まるでプリズムを通したように屈折され、無数に散乱された果ての産物ではないか。しかし、批評の多様性はそのような本質ゆえに生みだされているのも事実である。「読み」は本質的に誤読であり、しかしそれが間違いであるということではない。それらは必ず生産的なものにつながるのだろう。それは「読むこと」だけではなく「書くこと」においても有益な視点をもたらしてくれることは間違いないだろう。